講座詳細
日本からの漂流民
ハワイに初めて上陸した日本人は漂流民でした。
日本人のハワイ上陸の歴史は、自分の意思で移民をした人達ではなく、漂流民から始まりました。
ハワイに最初に来た日本人
記録に残る最初の漂流民の来島は、カメハメハ大王がハワイ王国を創り上げた後の1806年のこと。日本では文化3年、十一代将軍徳川家斉の時代にあたります。それ以前にも漂流してハワイにたどり着いた日本人が居た可能性はありますが、それは想像の域を脱しません。
安芸国の稲若丸は大坂から伊勢に向かう途中の1月、暴風雨に遭い漂流、幸いにも3月になって米国の捕鯨船に助けられ、乗組んでいた8名全員が1806年4月にオアフ島に上陸して、カメハメハ大王に謁見をしました。しかし鎖国をしている母国に直接帰ることは叶わず、翌年2名が長崎に上陸して、生き残った平原善松のみが取調べに対してハワイについて口述しています。そして、1832年12月には、越後早川村の難破船がオアフ島南西端のバーバーズポイントに漂着し、4名が救助されました。
帰国後の取り調べ結果が、文章と絵で詳細に残されたものがあります。「番談」と云う書物です。ハワイの様子を詳しく覚えてたのは富山の運搬船長者丸の次郎吉でした。1838年のこと。富山の運搬船、長者丸が天保9年(陰暦)11月23日に三陸の釜石のあたりで西風にあおられ漂流。5ヵ月後にマサチューセッツ、ナンタケット島の捕鯨船「ジェームスローパー号」(次郎吉の口述では「ゼンロッパ」)に救助され、10名の乗組み員の内、生存していた7名がハワイへ。1839年(天保10年)にはハワイ島ヒロ(同口述ではヘド)に到着した後、マウイのラハイナとワイルク、そしてホノルルに留まり、その後カムチャッカ経由で、1843年(天保14年)に帰国を果たしています。江戸での取り調べに対し、漂流した時26歳であった治郎吉が語った、ハワイの暮らしぶりや地理、風土が、蕃談(ばんだん)もしくは蕃箪(ばんたん)として残されており、その三巻の写本がビショップ博物館に保管されています。文章は儒学者の古賀謹一郎等が聞き取って記録したもので、挿絵は次郎吉本人によるものと伝えられていて、溶岩の流れる火山も描かれています。
番談に描かれたハワイの様子
番談に描かれた火山の様子
さて、ハワイに到達した漂流民の中で、最も名が知られているのはジョン万次郎でしょう。1841年(天保12年)に他の4人と共に鳥島に流れ着いた後、米国マサチューセッツ、ニューベッドフォードの捕鯨船「ジョン ハウランド号」に救助され、ホノルルに上陸しています。
そして、後に元年者と称されるようになる移民が1868年にハワイに到着する前に、上述の他に3件の日本人漂流民の来島ケースが報告されています。
以上は、鎖国をしていた江戸時代の話です。日本では、漁船も運搬船も一般的には、陸地が見える範囲で航海をしていた時代です。悪天候を予知出来ずに沖合に流されてしまった例も数多くあったのかもしれません。それが19世紀になると捕鯨船に救助される例が出てきたのです。日本列島、琉球、小笠原からグアム島にかけて、ハワイを中継基地にして北太平洋に展開していた米国の捕鯨船が数多く航海していたことが、ここからも読み取れます。
米国の捕鯨船(マウイ島カアナパリの捕鯨博物館の展示物より)
付帯的な情報・発展情報
国外の事情は、公式には長崎のオランダ商館経由でしか知り得るルートの無かった江戸時代後期です。
治郎吉や万次郎からの聞き取りは、開国派と攘夷派のせめぎ合いの中、非公式ながらも大変有益な国外情報となりました。
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浅沼 正和Masakazu Asanuma担当講師
【インタビュー動画あり】
ハワイ在住通算27年目を迎える。2001年からビショップ博物館で日本語ドーセントのボランティアを始め、2003年に同博物館の会員組織を代表する Bishop Museum Association Council のメンバーに選出され、21年間務めた。他に、ハワイ日米協会理事やハワイ日本文化センターのBoard of Governor 等を務め、日布間の文化交流活動に従事している。海外の訪問国と地域の数は95箇所に及ぶ。