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2020.12.04

歴代のハワイ州知事―初代から4代目まで―

ここがポイント

ハワイが州になって以降の知事について、生い立ち、成し遂げたこと、時代背景などを詳しく学びます。

ハワイ州初代知事
ウィリアム・フランシス・クイン(William Francis Quinn)
1959年~1962年



支持政党:共和党
前職、就いた主な職業:軍人、弁護士、ドール・パイナップル・カンパニー社長
1919年7月13日ニューヨーク州生まれ、2006年8月28日逝去

★クイン知事の生い立ちについては、「歴代のハワイ準州知事―第七代目~十二代目―」をご参照ください。

1957年から、アイゼンハワー大統領の任命によりハワイ準州最後の知事を務め、1959年、多くのハワイ住民の念願だったハワイの州への昇格を経て、最初のハワイ州知事選で勝利を収めたクイン知事。対抗馬として出馬していたのは、次期州知事となるジョン・バーンズ氏でした。


ハワイは州となったことで、アメリカ連邦議会上院に2名の代表者を、下院*に1名の代表者を送ることが可能になりました。選挙にて、上院議員には弁護士のハイラム・L・フォン氏と、第10代目の準州知事だったオレン・E・ロング氏が選ばれ、下院議員としてダニエル・K・イノウエ氏が選ばれました。

*各州からの下院議員の人数は州の人口により決まり、現在ハワイは2名の下院議員枠を得ています。

準州から州に移行するにあたって、膨大な手続きと新たな政策への対応を迫られる中、クイン州知事は、起きるストライキへの対応、そして、1960年5月22日、南米チリの南西部で発生した巨大地震(マグニチュード9.4~9.6)による津波によって大きな被害を被ったハワイ島ヒロへの対応にも尽力しました。


(津波後のヒロの様子。US Navyより)

州になったことで、アメリカ本土での知名度が上がったハワイ

1958年から工事が始まっていた、ハワイ初の大型ショッピングセンターであるアラモアナ・センターが、ハワイの州昇格と同年の1959年8月13日にオープンしました。また、ハワイが州になったことで、アメリカ本土におけるハワイの知名度が上がり、パン・アメリカン航空、ユナイテッド航空が大型ジェット機を使った路線をアメリカ本土とハワイの間に就航させたことも手伝って、1958年と比べ、観光客数は42%も増加。世界に展開するホテルチェーンの数々もハワイでの開業を目指し、ホテルの着工が相次ぎました。アメリカ本土および外国人投資家や企業がハワイに流入し、州となったハワイの新たな発展を後押ししていく形となりました。


ハワイ州第二代目知事
ジョン・アンソニー・バーンズ(John Anthony Burns)
1962年~1974年



支持政党:民主党
前職、就いた主な職業:アメリカ議会下院議員、軍人、不動産業、ホノルル警察署長
1909年3月30日モンタナ州生まれ、1975年4月5日逝去

モンタナ州で長男として生まれ、陸軍軍人である父がオアフ島のフォート・シャフター配属となったことで、1913年からハワイへ。その後、父が家族の元を離れたため、陸軍病院に勤める母と3人の弟たちを助けながら学校に通う日々でしたが、カンサス州の叔父のもとに預けられ、そちらの高校に通うことになりました。陸軍に所属した後、ハワイに戻り、ハワイ大学に通いました。

1934年にホノルル警察の巡査としてキャリアを積む中で、FBI(連邦捜査局)からスパイ対策特別部門長に任命され、45年に退職するまでの間には、ホノルル警察署長としても活躍していました。第二次世界大戦が終わりに差し掛かる頃、戦争に赴いた日系アメリカ人、 日系人およびフィリピン系労働者を共に、民主党の立場から社会のためにと政治の世界に入り、1952年から56年の間はハワイ民主党の議長に、そして、その間の1954年に行われたハワイ準州上院・下院議員選挙にて、民主党大勝利へと導きました。

1957年から59年は、アメリカ連邦議会下院議員を務め、ハワイ州最初の州知事の座を目指し、クイン氏と選挙で戦いますが敗れてしまいます。しかし、1962年の知事選では、立候補したクイン知事を大きく引き離し、2代目の州知事に就任し、その後も再選を繰り返し、3期に渡って知事の職を務めました。

リベラルで進歩的な社会を


民主党でも重要な立場にいたバーンズ氏らしく、知事時代には民主党の理念をもとに、リベラルで進歩的な社会を作ることに尽力しています。例えば、全ての公務員に団体交渉権を認め、労働条件改善などを求めるストライキを行うことを認めました。また、性差による差別を禁止した、男女平等憲法修正条項を、アメリカ50州の中で最初に批准しました。(批准した州の数が規定に満たなかったため、国としての批准には至りませんでした。)

ホノルルの空港をジャンボジェット機に対応できるように拡張、大学の拡充、オアフ島南部と東部を結ぶH-3フリーウェイ(ジョン・A・バーンズ・フリーウェイ)の建設、そして新たな州庁舎の建設*と、州政府主導で新たな建築物が次々と造られ、さらにはワイキキを中心にホテルの建築ブームもあり、街は発展していきました。好調な観光業と、アメリカ、外国から集まる投資による開発、高い生産量を保っていた砂糖やパイナップルの輸出など、ハワイの経済は急激に成長していきました。

*1969年に州庁舎が完成するまでは、イオラニ宮殿に州・準州知事のオフィスが置かれていました。



ケネディ大統領がハワイへ

バーンズ知事の任期中の1963年6月8日、ケネディ大統領がハワイに降り立ち、ハワイの人々によって熱狂的に迎えられました。大統領として初めてアリゾナ記念館を訪れ、戦没者の人々に哀悼の意を示し、人々に、未来に希望を持たせるスピーチを残して、20時間という短い滞在を終えました。




ハワイ州第三代目知事
ジョージ・リョウイチ・アリヨシ(George Ryoichi Ariyoshi)
1974年~1986年



支持政党:民主党
前職、就いた主な職業:軍人(通訳)、ハワイ準州下院議員、ハワイ州上院議員、副州知事(バーンズ知事3期目)
1926年3月12日ホノルル生まれ

福岡県出身の日本人移民の血を引く、日系2世のアリヨシ氏はホノルルで生まれました。父のリョウゾウ氏は船乗りとしてハワイに到着し、その後、港で働いたり、米屋や豆腐屋などを経営、後にドライクリーニング店を開店するなど、ビジネスマンとして忙しくハワイ各地を飛び回る中、相撲取りとしても活躍する人物でした。そのため、息子のアリヨシ氏は、小・中・高校校時代には、オアフ島内の様々な学校に通うことになりました。高校生の時に、弁護士になることを目指しますが、第二次世界大戦中に日本語の通訳として召集され、その後ハワイに戻ってから、ハワイ大学、ミシガン州立大学、そしてミシガン法科大学院で学び、目標としていた弁護士の資格を得ました。

1954年の民主党大勝利となった選挙で、アリヨシ氏はハワイ準州下院議員に当選し、58年まで務めた後に、準州上院議員にも選ばれ、70年まで務めました。バーンズ知事の第3期目の副州知事に選ばれ、知事と共に急激に成長するハワイを支えていきましたが、ガンを患っていたバーンズ知事の体調が悪化したことで、1973年からは州知事としての役割を果たしていくことになり、翌74年の知事選で正式に第3代目の州知事となりました。アメリカ国内初となる日系アメリカ人知事として注目され、3期に渡って知事の職を務めました。

急激に増え続ける人口(70年代から80年代にかけて19万5000人増加)、警察官、教師、全公務員による度重なるストライキに対応する必要に迫られる中、バーンズ知事時代から続いた経済成長の伸びが鈍化し、州となって初めての景気後退を経験しますが、観光業の成長を支え、同時に、水産物の養殖、エネルギー研究、史跡の保護などの援助も積極的に行っていきました。



ハワイアン・ルネッサンスとハワイ州憲法制定会議

1970年代に入ると、ハワイの文化が息を吹き返し、ハワイアンの人々がハワイアンであることのプライドを高めるきっかけとなった「ハワイアン・ルネッサンス」と呼ばれるムーブメントが活発化していきました。ハワイ語の使用と研究が進み、フラ、歌、サーフィンやカヌー、芸術、その他、ハワイの文化活動は活気を帯びていきました。古代ハワイで使われていた大型のカヌーを再現したホクレア号が、1976年にハワイからタヒチに向かい、古代同様に星を使って航路を定める方法で航海を成功させたことは、ハワイアン・ルネッサンスをまさに体現したものでした。


By Phil Uhl - Own work, CC BY-SA 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=31531651)

このような中、1978年に行われたハワイ州憲法制定会議ではハワイ語が英語と並んで公用語と認められ、ハワイアン問題対応事務局(The Office of Hawaiian Affairs/OHA)の設立も決まりました。同時に、知事の任期の上限も2期(8年)までと定められ(4年をおけば、再度知事に立候補可能)、連続3期に渡って知事を務められたのは、バーンズ、アリヨシ両知事のみとなりました。


ハワイ州第四代目知事
ジョン・デイビッド・ワイへエ Ⅲ(John David Waiheʻe Ⅲ)
1986年~1994年



支持政党:民主党
前職、就いた主な職業:ハワイ州下院議員、副州知事(アリヨシ知事3期目)
1946年5月19日ハワイ島ホノカア生まれ

ハワイ島ホノカア生まれのワイへエ氏は、州知事として初のハワイアンの血を引く人物です。ミシガン州のアンドリュー大学で歴史とビジネスについて学び、さらにハワイ大学が設立した、法学部にあたるウィリアム・S・リチャードソン・スクール・オブ・ローの第一期生として法律を学びました。1978年のハワイ州憲法制定会議に参加しており、ハワイアン問題対応事務局の設立にも携わっています。1980年にハワイ州下院議員に当選、1982年には副州知事に選出され、アリヨシ知事と職を共にした後、1986年の知事選にて勝利。ハワイ初、アメリカ国内初のハワイアンの知事として2期に渡って知事の職を務めました。

ハワイ王国転覆に対するアメリカ政府からの謝罪

1993年1月17日。ハワイ王国が転覆させられたその日から100年目となるその日、ワイへエ知事は、4日間に渡って州の建物にアメリカ国旗を掲揚することを禁じ、ハワイアンが自ら統治する国を失ったことに思いを寄せました。その日、12,000人ものハワイアンの人々がアロハタワーからイオラニ宮殿まで歩き、ハワイアンへの主権回復の声をあげました。

1993年11月23日、当時のクリントン大統領により、アメリカがハワイ王国の転覆をもたらしたことに対し、正式に謝罪がなされました。しかしながら、ハワイアンと似た歴史を持つネイティブ・アメリカンに対して自治権を与えているのに対し、ハワイアンはアメリカ原住民には当たらないという理由で、自治権を与えることはしないとされ、法的な疑問を多く残す結果となり、ハワイアンに主権を戻すことを目指す団体がいくつも設立されることにつながりました。

観光業の発展と土地の急激な高騰


州となって以降、ハワイは観光業の成長が著しく、1972年にはハワイの産業では観光業収入がトップとなり、76年には国からの国防費と砂糖・パイナップル産業による収入を合わせた金額を超える収入を観光が生み出すほどとなっていました。ジャンボジェットの就航により、航空券の値段が下がり、1980年代には団体向けツアーが数々用意され、1984年には、ハワイ住民の3分の1が観光業に関わる仕事に就いていました。

ワイへエ知事の任期中は、ハワイの不動産市場が活況を呈していました。ちょうどその頃、日本の経済が好調だったこともあり、日本からの観光客数が大変な増加を見せ始め、また、大勢の日本人がハワイの不動産を購入、日本人投資家もハワイの土地購入や土地開発に活発に携わっていくようになりました。結果として、ハワイの土地は急激に高騰し、ハワイの住民が家を買うことができず、アメリカ本土に家を求めてハワイを離れる現象が強まりました。好調だった日本の経済が、バブル崩壊という言葉に表されるように、突如その勢いを止めてから、ハワイの急激な土地高騰にもようやく歯止めがかかりました。


ハワイが準州から州となったことで、アメリカ大統領の任命によって決められていた知事から、ハワイ住民による選挙によって選ばれた知事が活躍する社会となり、ハワイ住民の民意をよりしっかり反映することが可能となりました。州となってからの経済成長と発展の勢いが目覚ましかった時代の知事について今回は触れましたが、その後の知事の活躍についてもぜひ学んでみましょう。


●表示のない白黒写真はHawaii State Archiveより、各州知事の肖像画は、知事室(The Executive Chamber)にて撮影したものです。
  • ロバーツさゆり
    Sayuri Roberts
    担当講師

    東京生まれ。筑波大学・比較文化学類にて北米の歴史・文化を学び、英会話スクールの講師等を経て、結婚を機にハワイへ移住。Native Hawaiian Hospitality Association主催の歴史ツアー「Queen's Tour(当時)」に参加し、ツアーガイドの方に、日本語の通訳を頼まれたことから、2004年、ガイドとして登録、研修の上、日本語の歴史ツアーを始める。2006年、「Queen's Tour」の終了を機に、ツアーの継続について主催者の了承を得て、Hawaii Historic Tour LLCを発足、「ワイキキ歴史街道日本語ツアー(当時)」(その後「ワイキキ歴史街道ツアー」に改称)を開始。2007年、「ダウンタウン歴史街道ツアー」もスタート。テレビ、ラジオ、雑誌等、メディア出演多数。 『お母さんが教える子供の英語』(はまの出版)著者。

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