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2020.11.20

カメハメハ大王以前の各島の王の紹介

文字を持たなかった欧米人来島前のハワイ。各島や地域の首長=アリイ ヌイ ( aliʻi nui ) の血統や権力を示す長大な系図は、いわゆる語り部のような家柄の人達が記憶し諳んじ、詠唱として代々後世に伝えられてきました。メレ イノア ( mele inoa ) と呼ばれる、高貴な人を愛でる詠唱も多く残されています。

多くのアリイの名が伝承されている中で、歴史的に重要と思われる支配者(首長、王)を何人か挙げてみます。

【ハワイ島】
( Hawaiʻi )
ウミ ア リロア (ʻUmi a Liloa )
カメハメハの時代から数世紀遡った頃(15世紀との説も?)のハワイ島の首長で、島内の権力争いが続く中を戦い抜いて島全体を手中に治めた勇者であるとともに、階層社会にありながら平民にも親しまれた謙虚な賢者として語り伝えられてきた人。

(ビショップ博物館に保管されている、鳥の羽で飾られた肩から掛けるサッシュ。首長のマナ ( mana =力量)を示すためか、人の臼歯が編み込まれている。リロアのものとされているが、ウミ オ リロアのものか、その父リロアのものかは未確認)

高く険しい絶壁に囲まれ敵から身を護るのに最適な地、且つ清水や食料も豊富な島北東部のワイピオ( Waipiʻo ) 谷は古くから支配者が住み、ウミ ア リロアも又、ワイピオをその拠点としていた。
歴代の支配者を勝利に導いてきたとされる戦闘の守り神「クカイリモク」 ( Kūkāʻilimoku ) の守護者を引き継ぎ、それだけの権力保持者であったことが窺える。血縁をもって他島への強い影響力も持ち合わせていたようだ。

(ワイピオの谷 写真提供:ビッグアイランド観光局)

ケアヴェ( Keaweʻīkekahialiʻiokamoku )
ハワイ島の別名は、モク オ ケアウェ( Moku o Keawe )。
17世紀終盤から18世紀初頭にかけて、コハラ ( Kohala、ハワイ島北部 )、コナ ( Kona、西部 )、カウ
( Kaʻū、南部 ) を支配していた首長で、カメハメハはその子孫にあたると伝えられている。
その影響力はマウイ、モロカイ、オアフ、カウアイ等、他島にも広く及んでいたようだ。
 
カラニオプウ ( Kalaniʻōpuʻu )
英国のクック船長がハワイ諸島に到達した頃、ハワイ島全てを支配していたのが、カメハメハの叔父にあたるカラニオプウ。1729年生(推定)、1782年に亡。
マウイ島東部ハナ ( Hāna ) もその支配下に治め、ハワイ全体ではマウイの支配者カへキリと対峙する力関係にあった。
1778年11月、クック船長率いる2隻は北極海から越冬のためハワイ諸島に戻り、翌年1月、ハワイ島西部のケアラケクア湾に投錨。カラニオプウは若きカメハメハと共に乗船し、自身のケープ(アフウラ ‘ahu’ula )と戦闘の帽子(マヒオレ mahiole )をクックに贈呈。
このケープと帽子は現存し、ビショップ博物館に展示されている。
カラ二オプは甥のカメハメハに自身の領地を与えなかったものの、戦闘の守り神クカイリモクの守護者の地位を与え、ウミ ア リロア同様、カメハメハが後に島の支配者になることを暗示させる出来事であった。

(ビショップ博物館にに保管されているクカイリモク。ハワイ島からマウイ、オアフ島まで攻め入る時にも持ち運ばれたカメハメハの戦闘の守り神。恐ろしい顔全体は鳥の羽で覆われ、歯は犬の歯、目の白い部分は貝の内側、黒目はククイの実が使われている。)

【マウイ島】 ( Maui )
カへキリ ( Kahekilinuiʻahumanu )
マウイ島の別名は、カへキリ。
カラ二オプの宿敵でありカメハメハも一目を置いたカへキリ。1737年生(推定)、1794年亡。
「へキリ」は雷を意味し、雷の如き激しい熱情や激怒 猛烈さも表す。カへキリ自身を描いた絵は残されていないものの、半身全てを入れ墨で包み、名は体を表すように激しく皆に恐れられ、多くの戦いの先頭に立ち勝ち抜いた強者であったと伝えられる。
父ケカウリケの後を継ぎ、ハレアカラ山の東側ハナを除くマウイ島を4半世紀以上支配し、その勢力は他島にもおよび、カホーラヴェ、ラナイ、モロカイ、オアフ島までも10年近く手中に収め、カウアイ島にも血縁を通じて大きな影響を及ぼしていた。
1794年のカへキリの死が、カメハメハによる8島制覇への引き金になったと云われている。

(マウイ島の郡庁所在地ワイルクの、海に突き出た丘の上に在るハレキイ、ピハナ ヘイアウ(祭祀場)から島の西部プウ ククイ山を見渡す風景。年代不詳のヘイアウだが古きマウイを偲ばせるところ。)

【オアフ島】 ( Oʻahu )
カクヒエヴァ ( Kākuhiewa )
オアフ島の別名はカクヒエヴァ。島の卓越した首長であった伝えられている。
14世紀くらいから始まり、オアフがカへキリに征服されるまで、島には20数代の首長の名が伝えられている。その中で、17世紀頃に島全体を支配していたのがカクヒエヴァ。
清水に恵まれ食料も豊富であった島の北東部カイルアを拠点としワイキキにも勢力を伸ばし、ヘルモアと呼ばれる現在のロイヤルハワイアンホテルからロイヤルハワイアンセンター、ハレクラニホテルに至る地区に1万本のヤシの木を植えたとの伝説が残されている。

(ヌウアヌパリから見下ろすカイルア方面の風景。下に広がる平地がカワイヌイ ( Kawai nui ) と呼ばれる湿地帯で、この右側(東側)にウルポヘイアウが在る。この湿地帯周辺からカイルアの海岸までの平地が肥沃な場所としてアリイに好まれた地域であった。)

【カウアイ島】 ( Kauaʻi )
カウムアリイ (Kaumualiʻi)
カメハメハが1795年にハワイ島からオアフ島までを征服してから15年ほどの間、カウアイは手中に入らず。その間カウアイとニイハウを治め、最後の首長となったのがカウムアリイ。
1780生(推定)、1824年亡。
1792年に英国のバンクーバー船長がワイメアに寄港した際の航海日誌に、まだ12歳頃の若きカウムアリイの闊達で社交的な様子が記されている。
1810年に戦いを挑まずして2島をカメハメハに明け渡し、大王は自らの王国の下でカウアイとニイハウの統治を引き続きカウムアリイに任せた。
カウムアリイの墓はカウアイ島ではなく、マウイ島ラハイナに在る。
 
マノカラニポ (Manokalanipō )
カウアイ島の別名はマノカラニポ ( Manokalanipō ) 島の秀でた首長であったと伝えられる伝説上の人物。

(リフエに在るカウアイ博物館。カウムアリイが紹介されている。)

因みに、ハワイ8島を統一し王国を創り上げたカメハメハ大王は、12世紀に来島したカヒキ ( Kahiki =タヒチ)の神官パーアオから28代目とされている。(タヒチではなくサモアとの説もあるが不詳)
 
ハワイの高貴な人達の系図を口頭で伝えてきたものが、文字で記録され始めるのは1920年の宣教師団来島以降。マウイ島ラハイナで宣教師の教育を受けたカマカウ ( Samuel Nānaiakalani Kamakau ) Ruling Chiefs of Hawaii と云う本を書き、ハワイ島のウミ ア リロアの伝説からカメハメハ3世までの支配者の詳細な記録を残している。上記はそれを参考にしました。

(Ruling Chiefs of Hawaii の本)

ところで、支配者(首長、王)の象徴でもある戦闘の帽子マヒオレは、赤い大理石で造られた2体の巨大な彫刻としてハレクラニホテルに見ることが出きます。

(ハレクラニホテルに置かれたマヒオレの像。1983年 Charles W. Watson 作。2体はそれぞれ7トンの石が使われている。)
 
補足事項

支配者、首長、王をハワイ語でどう云うか、種々あるのですが、首長はアリイ ヌイ ( aliʻi nui )と云われる他、モイ( mōʻī ) が使われ、王はモイカネ、女王をモイワヒネ。島やある地域の支配者はアリイ アイ モク ( aliʻi ai moku ) 、支配者や統治者であることをノホ アリイ ( noho aliʻi )、神聖な首長の意味合いでアリイ ヌイ カプ ( aliʻi nui kapu ) と云う表現も見られます。

口頭で伝承されてきた歴史ゆえ伝説上の支配者の正確な年代や系列の確認は難しく、欧米人来島前の首長の肖像や絵はありません。

カクヒエヴァについては Ross Cordy の The rise and fall of the O‘ahu Kingdom を参考にした。

  • 浅沼 正和
    Masakazu Asanuma
    担当講師

    【インタビュー動画あり】
    ハワイ在住通算27年目を迎える。2001年からビショップ博物館で日本語ドーセントのボランティアを始め、2003年に同博物館の会員組織を代表する Bishop Museum Association Council のメンバーに選出され、現在に至る。他に、ハワイ日米協会理事やハワイ日本文化センターのBoard of Governor 等を務め、日布間の文化交流活動に従事している。海外の訪問国と地域の数は95箇所に及ぶ。

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