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2014.01.17

ハワイ王国の終焉

砂糖産業を中心としたハワイの経済界は王権の継続を良しとしませんでした。
米合衆国との互恵条約締結の結果、ハワイ王国は砂糖産業の隆盛で繁栄を続けていきました。 しかし、それは王権を揺るがす結果となりました。

1895年 1月6日 ホノルルで王政復古を求める武装蜂起が起きます。
リリウオカラニ女王の邸宅の庭から武器が発見されたことから、女王は共和国政府により逮捕され、イオラニ宮殿に8ヶ月間幽閉されました。幽閉されていた室は、宮殿を正面から見て2階右側にあたります。

ハワイ王国の憲法に、国王が後継者を指名しなかった場合、王家の血の流れている者の中から議会の選挙で王を選出するとの条項がありました。カメハメハ五世が後継者を選ばずに亡くなったため、ルナリロカラカウアが立候補し、選挙に勝利したルナリロが1873年に六代目の王になりましたが、一年余在位して又後継者を選ばずに亡くなりました。そのため1874年に再度選挙が行なわれ、エマ王妃とカラカウアが立候補し、カラカウアが七代目の王となりました。エマの英国贔屓と米国併合への警戒心が、米国系が大半を占める砂糖業者をはじめとする経済界に嫌われた結果とも云われています。


ルナリロ 写真提供:ビショップ博物館

就任後のカラカウアは、選挙公約の一つでもあった米合衆国との互恵条約締結の促進に努め、自らも渡米して1876年に条約締結に成功します。結果、ハワイの砂糖産業は爆発的に拡大していきます。砂糖プランテーションの規模拡大は、後に米国からの更なる資金流入をもたらし、砂糖工場の増設ばかりでなく、灌漑水路造成や鉄道建設も活発化していきます。しかしながら互恵条約には、米国以外とは同様の条約を結べない、精製前の砂糖のみが無税で米国に持ち込める等、米国側に有利な条項が盛り込まれました。

そればかりでなく1887年には条約が改訂され、互恵関係継続の条件として米国海軍の真珠湾使用権が認められてしまいました。カラカウアは、イオラニ宮殿を石造りの現在の建物に建て替えている最中の1881年(明治14年)、砂糖農園での労働力確保に必要な移民の調査を目的として、世界一周の旅に旅立ちます。国政を妹のリリウオカラニに任せ、9ヶ月と9日間の長旅となりました。サンフランシスコで船を乗り換え、初めて訪れた東洋の地、横浜で下船した王は東京で明治天皇に謁見し、日本からの移民を提案し、官約移民と呼ばれる明治政府が正式に認めたハワイへの移民が1885年に開始されました。
 


カラカウア 写真提供:ビショップ博物館


その他にも明治天皇に幾つかの要請をするのですが、一つは姪であるカイウラ二王女と明治の皇室の山階宮との婚姻の申し入れ、二つ目は太平洋からアジアにかけての王国の連合を創ろうとの壮大な構想でした。しかし、この二件とも後日丁重にお断りを受ける結果となりました。お断りの書面は、現在もビショップ博物館に大切に保管されています。因みに、カラカウア王は日本を訪問した初の現職外国元首となりました。
 

ハワイ王国は砂糖産業により益々繁栄をしていきます。
しかし同時に西欧人主体の経済界の力も強まり、1887年、その圧力の下でカラカウアは王権を制限する改正憲法に署名を強いられます。(銃剣憲法王の権力を内閣に分散させられてしまったのです。この知らせを受け、英国のビクトリア女王のジュビリー(在位50周年)を祝うため渡英していたカピオラニ王妃とリリウオカラニ王女は、欧州大陸への旅を取止め、急遽帰国することになりました。

その後、米国への併合を求める親米派の動きが強くなり王権を維持するのが難しくなっている最中、カラカウアは体調を壊し、サンフランシスコでの療養中の1891年に客死します。兄の死を受け急遽8代目の女王になったリリウオカラニは、2年後の1893年1月にはハワイアンの人々の復権を求めて新憲法を発布しようとして阻止され、王権反対派や新米派の力に屈するように王権を放棄せざるを得なくなりました。この時、日本は移民を保護する名目で東郷平八郎艦長率いる巡洋艦「浪速」をホノルルに派遣しています。

この時点で王国は終わりを告げるのですが、当時の米国大統領クリーブランドはハワイの併合を承認せず、ハワイはその後も共和国として存続しました。しかし、1897年になると米国では民主党のクリーブランドから共和党のマッキンリーへの政権交代がなされ、新大統領はハワイ併合法案に署名するに至ります。その結果1898年8月にはイオラニ宮殿でハワイ国旗が降ろされ、代わって星条旗が掲揚されました。

カメハメハ大王により統一されたハワイの島々は、約一世紀を経た後、アメリカ合衆国の領土へと変容していきます。


リリウオカラニ 写真提供:ビショップ博物館

 

  • 浅沼 正和
    Masakazu Asanuma
    担当講師

    【インタビュー動画あり】
    ハワイ在住通算27年目を迎える。2001年からビショップ博物館で日本語ドーセントのボランティアを始め、2003年に同博物館の会員組織を代表する Bishop Museum Association Council のメンバーに選出され、現在に至る。他に、ハワイ日米協会理事やハワイ日本文化センターのBoard of Governor 等を務め、日布間の文化交流活動に従事している。海外の訪問国と地域の数は95箇所に及ぶ。

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