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所用時間5min
2019.01.01

ハワイ共和国

ハワイ共和国誕生の背景は複雑でした
 
王権擁護派と、砂糖産業を中心とした経済界の親米派、それぞれの諸派が入り乱れて活動する中、ハワイの歴史はリリウオカラニ女王の退位を求める方向への力を強めていきましたが、一方で、米国は併合をすぐには認めず、ハワイは共和国としてしばらく存続し続けました。


米合衆国への併合を求める親米派と、王権擁護派の険悪な対立が続く1893年(明治26年)1月14日、ハワイ王国8代目の女王リリウオカラニは、ネイティブハワイアンの権利を擁護する新憲法を発表しようとしたものの、一部の大臣の反対に遭い延期を余儀なくされました。新憲法発布に賛成するネイティブハワイアン中心の群集が集まる不穏な空気の中、16日になり、ハワイ駐在の米国公使スチーブンス (John Stevens) の要請によりホノルル港に停泊していた米海軍ボストン号の兵員が上陸。リリウオカラニ女王は衝突を避け、17日に王位を退くことを決断。カラカウア王の時代から下院議員など王国の要職を勤めていたサンフォード ドール (Sanford Ballard Dole) が、イオラニ宮殿正面に建つ政府庁舎「アリイオラニ ハレ」(Aliʻiōlani Hale) に暫定政府 (Provisional Government) を樹立しました。
 


1883年のアリイオラニ ハレ(司法史センターの展示物より Hawai‘i State Archives 所有の写真)
その年建てられたカメハメハ大王像も映っている
 

1月16日の集会を知らせえるポスター(ビショップ博物館の展示物より)


しかしながらこの時、米合衆国は与野党の政権交代時期にあり、ハリソン大統領の任期は残りわずか。
米国による暫定政府承認は遅れ、その間に4年ぶりに24代大統領に再選された民主党のクリーブランドは就任早々、ブラント (James Blount)を団長に調査団をハワイに送ることを決定。調査団は3月29日ホノルルに到着し、2日後には星条旗を降ろさせ、米軍を船に引き上げさせました。ブラントは、「スチーブンス公使は王朝転覆を図る外国人を援助し、米国海軍を上陸させたのであって、ハワイは女王に返還されるべき。従って臨時政府も米国への併合派も支持すべきではない」旨を大統領に報告し、クリーブランド大統領は、ハワイの米国への併合ばかりか、暫定政府をも支持しない姿勢を取りました。
 


クリーブランド大統領の肖像(アリイオラニ ハレ近くのミリラニ通りにある記念碑より)


ハワイでの親米派は、「クリーブランド大統領はハワイ併合を承認することはないだろう。従って次の政権まで待たざるを得ない」との判断に至り、暫定政府は米国への併合をしばし諦め、ハワイ共和国樹立へと舵を切りました。そして1894年7月4日、米国の独立記念日を選び、共和国憲法発布と共和国誕生を宣言し、The Republic of Hawaii が誕生しました。
蛇足ですが、中国人と、既に1万人以上の人口に膨れ上がっていた日本人移民への参政権の与え方が問題となり、議論の末1893年1月17日に国民であった者には参政権があると定められました。ポルトガルからの移民は元々臨時政府賛成派とみなされていたようです。

 米合衆国への併合は次の政権まで待たざるを得ないとの憶測は、その通りに展開しました。米国とスペインの戦争が始まり、米国は1898年4月にキューバに出兵。5月にはフィリピンでも戦闘が始まり、同年12月に両国間でパリ条約が結ばれ、フィリピン、プエルトリコ、グアムが米国に割譲され、キューバは独立国として承認されました。1897年に第二十五代目の大統領になった共和党のマッキンリーはハワイの併合に意欲を燃やし、連邦議会も、フィリピンで戦うためにも、アジア進出の補給地としても、ハワイの有用性を見出し、ついにハワイ併合を承認します。
その結果、1894年に発足したハワイ共和国は1898年に終わりを迎え、8月12日にイオラニ宮殿で、共和国旗としても継続して使われていたハワイ王国国旗が降ろされ、星条旗が掲揚され、ハワイの国としての存在に終わりを告げました。
その後、ハワイは1900年6月4日に正式に米合衆国の一部となり、6月にマッキンリー大統領によりサンフォード ドールがハワイ準州初代知事に任命されました。


1898年イオラニ宮殿で降ろされるハワイ国旗(ビショップ博物館の展示物より)

1914年のリリウオカラニ元女王とサンフォード ドール(左)(ビショップ博物館の展示物より)

 
 
補足事項

リリウオカラニ女王は、退位は一時的なものと考えており、共和国時代に復権の動きを何度もみせています。因みに、将来王位に就く可能性もあった、姪にあたるカイウラニ王女は王国消滅の時、17歳で英国留学中でした。

  • 浅沼 正和
    Masakazu Asanuma
    担当講師

    【インタビュー動画あり】
    ハワイ在住通算27年目を迎える。2001年からビショップ博物館で日本語ドーセントのボランティアを始め、2003年に同博物館の会員組織を代表する Bishop Museum Association Council のメンバーに選出され、現在に至る。他に、ハワイ日米協会理事やハワイ日本文化センターのBoard of Governor 等を務め、日布間の文化交流活動に従事している。海外の訪問国と地域の数は95箇所に及ぶ。

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