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2018.12.21

第1回官約移民と後藤濶

第1回官約移民と後藤濶

ハワイ島ハマクア耕地に残る、移民の歴史

官約移民は1885年に始まりました
 

ハワイ島北東部に在るお寺、ハマクア浄土院 ( Hamakua Jodo Mission ) の墓地に、第1回官約移民でハワイに渡った後藤濶(ごとう かつ)のお墓が在ります。

ハマクア浄土院に建てられている後藤濶の墓

明治政府が初めて正式に認めた移民「官約移民」はハワイ王国との政府間契約で、1885年(明治18年)から、ハワイ王国が消滅した翌年の1894年まで10年間継続されました。その数は計26回で2万9千人余り。3年契約の出稼ぎ目的で、オアフ島ばかりでなく、隣島の砂糖耕地にも入植しています。


1885年2月8日にホノルルに到着した第1回船、シティー オブ トウキョウ号で945名ほどがホノルルに到着していますが、その約3分の1は山口県周防大島からの人達でした。
官約移民全体では、広島県の出身者が1番多く、広島、山口、熊本、福岡の4県で全体の96.1%を占めていますが、第1回に限って云えば山口県出身者の数が広島県からの人数を上回っていました。
官約移民当時の山口県知事の言葉が残されています。「能く三年の期を終え健康富を致して帰国するを待つなり」。
行政が率先してハワイ移民を奨励していたことが窺えます。

周防大島 日本ハワイ移民資料館

西日本からの移民が圧倒的に多い中、神奈川出身でハワイ島に入植した男性、後藤濶も第1回移民の1人でした。後藤は神奈川県中郡国府村、現在の大磯の生まれ。大磯町役場に勤めており、全国に通達されていたハワイへの移民募集を知り、23歳の時、第1回移民に応募しています。
ホノルル港に到着し検疫で留め置かれた後、ハワイ島へ。ハマクア ( Hāmākua ) 地区のオオカラ砂糖農園 ( ʻOʻōkala Sugar Plantation ) で勤勉に働き、知性派で英語に堪能であったこともあり労働者のまとめ役や農園主側との交渉役を務めるようになります。
3年契約が終わると、ハマクアの北、ホノカア ( Honokaʻa ) の雑貨店を買い取り、日本人を始めとして周囲の人々の信頼を得て営業は成功していきます。しかし、町で先に商店を開いていた人からは、商売を取られたとの不満もあったようです。一方、商店を営みながらも、以前働いていた農園の日本人労働者から頼りにされ、労働条件など農園主側との交渉を引き受けていました。
農園主側にも不快感を持たれたのでしょう。1889年10月、日本人労働者との会合を終え深夜に1人で帰宅する途中、ホノカアの街外れに差し掛かったところで何者かに襲われ、翌朝電信柱に吊り下げられた姿で発見されます。殺人事件として容疑者が逮捕され、裁判が行われ数人に有罪判決が下されますが、その後犯人と思われる者は逃亡したり恩赦を与えられたり曖昧な結果に終わり、ハワイ王国の経済を支えた砂糖産業の中で日本からの出稼ぎ労働者の社会的な立場の弱さが浮き彫りになった事件でした。

後藤濶の遺影(ホノカア浄土院にて)

後藤濶が被害にあった場所近く、ホノカアの町を通る道沿いに彼を偲ぶ日英両語で書かれた碑が置かれており、お墓はハマクアのパアウハウ ( Pāʻauhau ) 地区の旧道近くに在るお寺、ハマクア浄土院に建てられています。このお寺の墓地には他にも移民1世が眠っています。

ホノカアの道筋に在る後藤濶の碑

ハワイへの移民が開始された後、浄土宗は一早くハワイ島ハマクア地区で布教を始め、このお寺は
各宗の中でもハワイで一番初めに建てられたものだと聞いています。近くの旧道沿いには家々が並んでいたようですが今はその面影もなく、海まで広がるハマクア耕地を見下ろす高台にひっそりと建つお寺は近くに住む日系人の檀家により細々と、しかし大切に守られています。

ハマクア浄土院

ハワイ島のマウナケアとマウナロア火山の東側、貿易風が吹き付け多量の雨をもたらす地域には、ホノカアやハマクアから南に、ラウパホエホエ、ヒロ周辺、そしてヒロからキラウエア火山に向かう途中のケアアウ ( Keaʻau ) 近くのオオラア ( Ōlaʻa ) 耕地など、砂糖農園が面々と広がっていましたが、今は1か所も残っていません。ハマクアの砂糖耕地も1990年代前半に終了。砂糖キビを運ぶために建設されたこの地域を走る鉄道は、1946年アラスカのアリューシャン列島を震源とする大地震による津波で大きな被害を受け、運行を終えています。


時間がゆっくり進んでいるように感じられる長閑なホノカアの街並み。他の国からの移民の文化と融合しつつも、日本人の名を残す建物や商店が幾つも残っており、本派本願寺などのお寺や映画館とともに、砂糖産業で活気づいていた時代の日系移民の生活を思い起させる情景を、今に残しています。

ホノカアの街並み

この章のポイント

  • 砂糖キビ耕地での契約労働に従事した日本人の過酷な労働条件、農園主や農地での監督( luna )との対立は他の地域でも多く伝えられています。その中で懸命に働いた官約移民の約6割は、契約終了後何年かの内に、大なり小なり蓄えたお金を携えて帰国しています。
  • 一方、残留した人達は耕地に残る者、他の島や条件の良い農園に移ったり、町へ出て自分の特技を生かして商売をする人など、様々な業種で生計を立てハワイの地に溶け込んでいきました。

付帯的な情報・発展情報

海外への移民が始まると、佛教各宗の開教師、神社の宮司がハワイを始め北米や南米に渡り、移民の心の拠り所として活躍しました。

ハワイ各島には、日本人移民と日系人のお墓が随所に見られます。日本の方角に向けて墓石が置かれているものも多いと云われています。

  • 浅沼 正和
    Masakazu Asanuma
    担当講師

    【インタビュー動画あり】
    ハワイ在住通算27年目を迎える。2001年からビショップ博物館で日本語ドーセントのボランティアを始め、2003年に同博物館の会員組織を代表する Bishop Museum Association Council のメンバーに選出され、現在に至る。他に、ハワイ日米協会理事やハワイ日本文化センターのBoard of Governor 等を務め、日布間の文化交流活動に従事している。海外の訪問国と地域の数は95箇所に及ぶ。

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