講座詳細
元年者、150年の歴史
1868年にハワイに渡った、後に元年者と呼ばれるようになる150名ほどの一団が、日本から海外に集団で移民した最初の人達になりました。慶応4年は、その年の新暦10月に、同年を明治元年とする改元の詔書が出されていますので、元年者の人々は、日本が明治元年になったことを知らずにハワイに渡ったことになります。
元年者、150年の歴史
日本から海外への初移民、ハワイへ渡った元年者
1868年に横浜からホノルルに渡った移民は、後に元年者と呼ばれるようになりました
話は、1853年のペリー提督の浦賀来航、そして1854年(嘉永7年)の所謂、神奈川条約(日米和親条約)締結にまで遡ります。米国により鎖国を解かれた日本は、1858年に日米修好通商条約に調印。蘭露英仏とも同様の条約を結びました。その結果、外国人が日本に入国出来るようになったばかりでなく、1866年(慶応2年)には、日本人の商用と学業を目的とした海外渡航を幕府が始めて許可。海外への渡航者に対し、現在の旅券にあたる「御免の印章」を発行するに至ります。
捕鯨船の中継補給基地として繁栄した時代が終りつつあったハワイ王国は、その後の国の経済を支える砂糖農園で必要な労働力を確保すべく海外からの移民受け入れを始めます。農園主でもあり王国の内閣の一員も務めていたスコットランド人、ロバート ワイリーは日本からの移民を求め、日本語にも精通していたハワイ王国総領事でオランダ系米国人、ユージーン ヴァン リードに日本での交渉を依頼。ヴァン リードは徳川幕府と交渉して渡航許可を入手し、横浜で移民募集を開始しました。横浜と江戸で応募した人達の中から150名ほどを選び、新暦1868年5月17日(旧暦慶応4年4月25日)3本マストで800トンの英国籍の帆船サイオト号( Scioto)で横浜港を出発しています。しかし、戊辰戦争の最中、且つ江戸城明け渡しのすぐ後のこと、明治新政府の許可を得られないままの出航となりました。150名の中には女性(妻)が6名含まれています。
移民の一行は、1か月余の航海の末ようやく6月19日(旧暦5月1日)ホノルル港に到着し、20日に上陸。航海中の様子は移民の1人、佐久間米吉が日記に残しています。
上陸して2週間後には、3年契約でオアフ、マウイ、カウアイ、ラナイ各島の砂糖農園へと移っていきましたが、一部はオアフ島ホノルルに残り、欧米人の従者として働いています。
農園での作業は長時間にわたり、募集時に聞いていた条件とも違いがあり、監督(ルナ)による鞭打ち等、過酷な状況にありました。総取締(移民頭)に任命されていた石巻出身の牧野富三郎が、窮状を訴える書面を日本政府に送っていますが、回答を得られずじまい。その後、この状況をサンフランシスコの新聞が取り上げたこともあり、ようやく政府は重い腰を上げ、移民召喚使節を送っています。薩摩出身の英学者、上野敬介景範(かげのり)が1869年12月に、サンフランシスコ経由でホノルルに到着。現地での交渉にあたり、移民の人達に帰国を促しましたが、それに呼応した約40名のみが1870年1月に帰国。残った者たちは、農園での差別がようやく解消した中で3年契約を全うすることになりました。この時点で、明治政府により正式に日本からハワイへの移民労働者として認められたことにもなります。
3年間の契約が終了したところで、牧野富三郎がハワイ王国政府に提出したと思われる名簿が現在も残されており、牧野自身も含め151名の名が記載されています。今回、ビショップ博物館に、その拡大コピーが特別展示されていますが、牧野によるその内訳は、残留者46名、米本土転航43名、帰国者51名、死者7名、不明4名、計151名となっています。又、1871年6月の契約満期の時点で、牧野を通じて日本政府に申請がなされ、46名が米本土へ、43名がハワイ王国在留の渡航印章を入手していますが、最終的に米本土に何人渡ったか、そしてハワイに何人残ったかは不明です。牧野自身は1871年にサンフランシスコに渡り、その後の消息をたどることが出来ません。
ハワイに残った50名ほどの人達は、官約移民開始後にハワイに渡った日本人女性と結婚した人も居たようですが、ほとんどは現地の女性と結婚し、カマアイナ(土地の人)として地元社会に溶け込んでいき、米本土に渡った人も含め、そのほとんどの動向が分かりません。
しかしその中で、その足跡の一部が分かっている人達が居ます。その何人かを紹介すると:
佐久間米吉:カウアイ島に住み、1927年没。前述のとおり航海日誌を書き残した
石井仙太郎:マウイに住み、元年者の中では最高齢、数え102歳で没
鈴木国蔵:農園での従事の後、ハワイ島ヒロで商店経営に成功。1906年帰国
吉田勝三郎:22歳で渡航。江戸芝出身。1925年亡。ハワイに残留後、マウイ島ウルパラクア農園で、厳しいルナに立ち向かった元年者最大の労働争議、所謂ウルパラクア事件の主導者
石村市五郎:元年者の中で最年少13歳で渡航。1893年にホノルルでクック学校を開設
五十嵐松五郎: 日本人女性と結婚。ハワイ島ヒロの布哇日系人会館では6世まで紹介されている
小沢金太郎、トメ夫妻:トメは元年者の内、ハワイに残留した唯一の女性。長男洋太郎は初の日系二世で、後にハワイ島初の日系警察官になった。金太郎とトメはその後帰国
オアフ島マキキ墓地に明治元年渡航者之碑が建てられています。上述の佐久間米吉が亡くなったことから、1927年(昭和2年)日本語新聞「日布時事」社長の相賀安太郎や日系の指導者が記念碑を建立。碑は、オアフ島ワイアルアで掘り出された1トンの自然石が使われています。当時、ハワイ在住の元年者生存者は、石井仙太郎、棚川半蔵とハワイ島在住の鈴木亀吉のみとなり、式典には石井、棚川の2名が参列しました。
写真左側が、マキキ墓地の明治元年渡航者の碑
元年者のハワイ来島から100年目の1968年(昭和43年)にはホノルルで記念大会が盛大に行われ、常陸宮様と妃殿下がご臨席されています。
元年者の渡航から150年の歳月が流れる中、今回ビショップ博物館での展示を準備するにあたり、マウイ島の砂糖農園での労働の後、ハワイ島に渡った佐藤徳次郎の系図が明らかになってきました。自分達の系図(ファミリー ツリー)を以前から調べていた子孫の1人の協力を得て、徳次郎とその妻、ハワイアンのカララ ケリイハナヌイ カメコナとの間に生まれた5男4女の系列から980名ほどが判明。まだ幼少の赤ちゃんではあるものの、8世も2人生まれていることが明らかになりました。その全ての名前は今回のビショップ博物館で特別展示されています。
付帯的な情報・発展情報
2018年には、日本からハワイへの初移民「元年者」の150周年を迎えましたが同時に、1908年に笠戸丸でサントス港に渡ったブラジル移民の110周年でもありました。2019年は、1899年に始まったペルーへの移民の120周年にあたります。
2019年4月、ホノルル市庁舎 ( Honolulu Hale ) 正面右側に、元年者150周年の記念碑が建てられました。元年者が日本を出航したのと同じ横浜から届いた1トンの石が使われています。
Honolulu Hale 正面に建てられた元年者記念碑
関連コンテンツ
⇒元年者と官約移民
-
浅沼 正和Masakazu Asanuma担当講師
【インタビュー動画あり】
ハワイ在住通算27年目を迎える。2001年からビショップ博物館で日本語ドーセントのボランティアを始め、2003年に同博物館の会員組織を代表する Bishop Museum Association Council のメンバーに選出され、21年間務めた。他に、ハワイ日米協会理事やハワイ日本文化センターのBoard of Governor 等を務め、日布間の文化交流活動に従事している。海外の訪問国と地域の数は95箇所に及ぶ。