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2021.03.19

ケワロ・ベイスン

ここがポイント

アラモアナ・センターからも程近い場所にある「ケワロ・ベイスン」。実は古代ハワイアン、そして日本人移民とも深い関わりのある場所でもあります。その歴史と役割などを詳しく学びます。


「ケワロ・ベイスン」―ガイドブックで大きく取り上げられる場所ではなく、あまり耳にしない名前かもしれませんが、有名なモール、アラモアナ・センターから徒歩圏内にあり、アラモアナ・ビーチパークに隣接しているため、ケワロ・ベイスン前の道は、毎日多くの人々が行き交っています。この場所は、古代ハワイアンと深い関わりのある場所で、さらに日本人移民とも深いつながりがあります。その歴史、その役割などを詳しく見てみましょう。


(広大なアラモアナパークの工事中の写真。写真上部の四角く入り組んだ所がケワロ・ベイスン。)


名前の由来

現在のケワロ・ベイスンは、掘削により造成された「港」とその周辺のエリアから成り立っています。「ベイスン」には「入り江」や「船着き場」の意味があり、1920年代に付けられた名前です。ケワロ・ベイスンの船着き場の部分は、「ケワロ・ハーバー」や「ケワロ・ベイスン・ハーバー」と呼ばれることもあります。造成される前のケワロ・ベイスンの海は、浅瀬の中にできた“くぼみ”のような形をしており、カヌーの発着所としての役割も果たしていました。ベイスンには、このような海底の地形(海盆)の意味を持つことから、ケワロ・ベイスンと名付けられたのかもしれません。一方、「ケワロ」は「(こだまのように響く)呼び声」という意味があり、古代にて行われていた儀式と深く関わっています。



儀式に使われた泉

ケワロ・ベイスンのある辺りには、かつて「Ka wai huahua‘i o Kewalo(ケワロの湧き立つ水)」と呼ばれた泉が湧いていました。この泉にはもう一つの名「Ka wai lumalumaʻi」という呼び名もあり、意味は「溺死の水」となります。古代ハワイでは、様々な場面で人の生贄が捧げられます。現在、国立太平洋記念墓地となっているパンチボウルには、かつてヘイアウ(Kānelāʻau Heiau)が建てられており、生贄の体を燃やす祭壇を持っていました。生贄となる人が選ばれると、このヘイアウに向かう前にケワロの泉に連れていかれます。生贄となる人は、泉に体を沈められ、さらに、儀式を行うカフナによって頭を水の下まで押さえつけられ、水の中で息を引き取りました。「(こだまのように響く)呼び声」という意味を持つ、ケワロに響き渡った声とはどんな声だったのでしょう…。


港としての歴史


オアフ島には9つの港があり、その内の3つが商業用として使われています。その3つとは、ホノルル港、オアフ島西部にあるカラエロア・バーバーズ・ポイント、そしてケワロ・ベイスンとなります。古代よりケワロ・ベイスンのある場所は、カヌーの発着所として使われていましたが、現在に至るまで、利用する船の大きさは変われど、港の役割を果たしてきている場所です。

ハワイにとって主要な港であるホノルル港は、歴史的に見ても大変忙しい港で、ホノルル港の混雑を解消することを目的に、海底を掘削し、港として使うために造られたのがケワロ・ベイスンです。1926年にコンクリート製の埠頭部分が完成し、当初は、木材を船から降ろす場所として使用する予定でしたが、木材の輸入業が下火になったことを受けて、1929年以降、小型の漁船用の港して使われるようになりました。


ケワロ・ベイスンを拠点とした漁船の数々

日々の食生活において、魚が主なタンパク源であった古代ハワイアンは、とても優れた漁師でもあり、いくつものカヌーで出航し、大型の魚も捕獲できる技術を持っていました。漁業と生活が密着したハワイアンですが、魚を多く捕り、それを売るという商業的な漁業は、ある一人の日本人移民から始まっています。

1899年、和歌山県出身の日本人造船技師、ナカスギ・ゴロキチ(またはゴロウキチ)氏が、日本から全長10mの帆船をハワイに持ち込みました。その船は、ハワイでは「サンパン」と呼ばれました。木造の小型の船のことを指す、中国語の「三板」に由来するもので、当時の日本でも、広く使われていた形の船でした。


(帆を広げたサンパンの様子。)

日本人移民の中から、造船技術を持つ人々が集まり、ハワイでサンパンが造られるようになります。サンパンを使った漁業で、動力として使われていたのは帆でしたが、後にエンジンに代わり、ハワイ近海で獲れるマグロ(Ahi、キハダマグロ)やカツオ(Aku)の漁において大活躍し、漁獲量も格段に上がりました。サンパン用には当初、ホノルル港が使用されていましたが、ケワロ・ベイスンが完成した後、そちらが港として使われるようになりました。


(ホノルル港に停められたサンパン。)


(日本の国旗が掲げられたサンパン。)


(龍王丸。)


(完成したコンクリートの埠頭部分。)

漁船が出入りするケワロ・ベイスンには、1930年代までには、魚市場、競り場、ツナの缶詰工場、氷工場、給油所が造られ、1940年までには、450隻を数えるサンパンがハワイで使われており、砂糖、パイナップルの生産に続き、ハワイの経済を支える3番目の柱が、漁業となりました。



「ツナ」の缶詰工場を建設

1933年、マクファーレン・ツナ・カンパニー(後にハワイアン・ツナ・パッカーズに改名)が、ケワロ・ベイスンに缶詰工場を建設しました。同社が扱う缶詰に使われる「ツナ」は、マグロではなくカツオ(スキップジャック・ツナ)で、サンパンで大量のカツオが獲られ、この缶詰工場に運ばれました。カツオ漁は、日本でも行われている一本釣りで、日本の漁法が持ち込まれたものです。オアフ島東海岸にあるカネオヘ湾で捕獲した、大量のイワシを餌にまき、海面に上がったカツオを次々と釣り上げていきました。





1937年から1980年まで、ハワイ近海で獲れるカツオのほとんどは缶詰用に加工されていました。缶詰工場では、1年でおよそ1000万缶の缶詰が製造され、その内の90%はアメリカ本土に送られていました。





第二次世界大戦中は、サンパンでの漁は中止となり、日本人の漁師は海に出ることを禁じられました。船は軍による見回りのために使用されるようになり、缶詰工場は、軍用機の燃料タンクの組み立て工場として使われました。

缶詰工場は1960年に、砂糖産業における5大企業の一つ、キャッスル&クック社に買収されましたが、1984年についに工場は閉鎖され、建物は全て解体されました。


現在のケワロ・ベイスン

かつては漁船が使用していたケワロ・ベイスンの港は、現在はシュノーケルやパラセイリングなどのウォーター・アクティビティーを行う船や、チャーター船などが停泊しており、観光客の方々が海へと向かう、その入り口の役割も果たしています。

人々が船に乗り込む手続きをしている大通りに面した部分には、巨大なカジキのレプリカが展示されています。



これは、1970年6月10日、ケワロ・ベイスンからチャーター船を使って出航したチョイ氏が釣り上げたカジキ(パシフィック・ブルー・マーリン)の大きさが分かるもので、およそ819㎏もの重さがありました。釣り竿を使って釣り上げられたカジキとしては、世界一の大きさとして、現在もその記録は破られていません。



港や水路部分の拡張工事などで出た土砂を使って埋め立てが行われて、「ケワロ・ベイスン・パーク」が造られており、地元の人々が集まります。

海を見渡すパークには、ケワロベイスンに隣接するカカアコに作られていた療養所で、献身的にハンセン病患者の世話をしていた、聖マリアンヌの銅像が建てられています。



聖マリアンヌについて詳しくは、こちらをご覧ください。


アラモアナ・センターやワード・ビレッジなど、賑やかな商業施設が建ち並ぶエリアにあるケワロ・ベイスン。漁港としての姿は既にありませんが、かつて活躍した、日本人の船大工や漁師の姿、誇らしげに日本の旗をはためかせて港に戻る龍王丸、大量に水揚げされるマグロやカツオ…。ショッピングの帰り道、近代化するハワイの一角に、まるで日本の漁村のような場所があったことを想像しながら歩いてみるのも、面白いかもしれません。



(白黒写真はHawaii State Archivesより、他の写真はHawaii Historic Tour LLC所有。)
 
  • ロバーツさゆり
    Sayuri Roberts
    担当講師

    東京生まれ。筑波大学・比較文化学類にて北米の歴史・文化を学び、英会話スクールの講師等を経て、結婚を機にハワイへ移住。Native Hawaiian Hospitality Association主催の歴史ツアー「Queen's Tour(当時)」に参加し、ツアーガイドの方に、日本語の通訳を頼まれたことから、2004年、ガイドとして登録、研修の上、日本語の歴史ツアーを始める。2006年、「Queen's Tour」の終了を機に、ツアーの継続について主催者の了承を得て、Hawaii Historic Tour LLCを発足、「ワイキキ歴史街道日本語ツアー(当時)」(その後「ワイキキ歴史街道ツアー」に改称)を開始。2007年、「ダウンタウン歴史街道ツアー」もスタート。テレビ、ラジオ、雑誌等、メディア出演多数。 『お母さんが教える子供の英語』(はまの出版)著者。

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