講座詳細
パシフィック・ツナミ・ミュージアム
ハワイ島ヒロにある、津波の歴史を語るミュージアム
- 地震、津波の過去の被害から今後の対策を国や自治体、個人でよく学び、考えるという姿勢を持つ事が大切。
ハワイ島ヒロは、東海岸に位置し、ハワイ島では最大の地方自治体であり、かつて日系人の町として栄え、日本名の付いたショップや建物、食堂スタイルのレストランが未だに残るノスタルジックな町です。ヒロの歴史は、サトウキビやコーヒーのプランテーションで働くために移民した日系人を中心とした移民で栄えた町としても有名でした。1946年のアリューシャン地震津波と1960年のチリ地震津波とで壊滅的な被害に遭い、その後は砂糖産業の衰えとともに、人口が減少し、その当時の華やかに栄えた町にはいまだに戻ってはいません。その壊滅的打撃を与えた津波を風化させない事、津波の被害を次世代に伝えていく教育目的で、1994年に作られたミュージアムです。
パシフィック・ツナミ・ミュージアムの外観
このミュージアムの建物はもともと銀行でしたので、室内にはその面影である金庫のドアなどもあります。館内では過去の津波被害を写真やパネルで紹介しています。まずは1946年の津波以前と以後のヒロタウンの様子が紹介されています。
1820年、ハワイ島のカイルア・コナの港にアメリカ合衆国、ニューイングランドからキリスト教を布教する宣教師一向が到着しました。そして他の島に移動したり、ヒロの町に移動し布教が始まりました。
当時のハワイはハワイ王国であり、独立国家でした。しかしながら、ハワイアンの人口が島以外からの侵入者により、半分以下に減り、サトウキビ産業の最盛期を迎えるハワイ王国にとっては、働き手がなく大打撃でした。そこで王国はアジアやヨーロッパなどから移民を受け入れ、産業の向上を目指しました。1860年は移民元年と言われますが、その時期日本は明治維新の中にあり、本格的に移民が始まったのは、後1885年の政府が契約した官約移民が移動した時です。それから9年間で約3万人の日本人がハワイに移民しました。その後は私約移民とし、1924年の移民法成立までには、多くの日本人がハワイに移民し、現在のハワイにおける日系社会を作りました。
ヒロの町の歴史
ヒロの町では、サトウキビやコーヒーのプランテーションのため移民した日本人が、プランテーション終了後、ヒロの沿岸部に移り住み、建築、土木関係、港の仕事、飲食、商店などの仕事に従事し、1895年にはヒロ電気会社も設立され、上下水道も完備されました。ヒロ鉄道も開通し、鉄道や防波堤に関わる仕事をしていた日系人の人口が急激に増加し、ヒロ市の人口の半分以上を占めていました。当時はヒロの町は椰子島町と新町という2つの日本人町が存在し、1910年〜1940年は日系人で活気づきました。
しかしながら、1941年に第二次世界大戦が勃発してからは、ハワイの日系人には戒厳令が発布、日本人学校閉鎖、日系人の漁業が禁止されるようになりました。
戦後の混乱期の中、追い打ちを掛けるように、1946年4月1日、アリューシャン地震津波がヒロの町を襲いました。当時は地震や津波の警報装置がなく、避難方法が未整備だったため、アリューシャンで地震発生から5時間後にはヒロの町に5〜10mの津波が発生し、ヒロでは96人、ハワイ全島では159人の犠牲者が出ました。なかでもラウパホエホエの学校では津波により、日系人の子供を含む24人の犠牲者が出たと言われ、今でも学校跡には記念碑が残されています。
ミュージアムには、後にラウパホエホエの学校の犠牲者の為に作られたツナミ・キルトが展示されています。
ラウパホエホエの学校の犠牲者の為へのツナミ・キルト
1946年のアリューシャン地震津波後、1948年に津波警報装置が完成したため、1952年、1957年にも津波はヒロの沿岸に発生していましたが、一人の犠牲者も出ませんでした。しかしながら、1960年5月23日、チリ地震津波により、また再びヒロの町はツナミに破壊されました。チリ地震発生後15時間で、津波がヒロの沿岸に達しました。この津波により、61人の犠牲者がでました。朝の1時4分の津波時のまま、時計が止まってたり、道の駐車メーターが根こそぎ曲がっている写真は、津波の破壊度の大きさを物語っています。犠牲者が出た原因には、誤報による警報が何度もあり、本当の警報がわかりにくかったということもあると言われています。この地震の後、昔の日本人町であった椰子島町、新町、ヒロのダウンタウンの一部はゴルフ場、公園、駐車場となり、それからは沿岸部に住居や商業施設を作ることが禁止されました。
駐車場のメーターが根こそぎ倒れている津波後の写真
館内の展示では史上二番目に大きい1964年のグレート・アラスカ地震の様子、2011年の東日本大震災の様子など、写真とパネルで紹介しています。また。日本へのメッセージなども書かれています。
地震により起きる津波のメカニズムを波の機械により、体験できます。シアターでは日本語でのビデオなども見ることができます。
過去の津波被害の状況を紹介し、それにより、今後の津波対策をみんなで考えるという、このミュージアムのあり方を我々に強く伝えるミッションが色濃く見えるミュージアムとなっています。
パシフィック・ツナミ・ミュージアムの看板
データ
Pacific Tsunami Museum
130 Kamehameha Ave.
Hilo, HI 96720
電話:808-935-0926(英語のみ)
時間:8時〜16時
休み:日曜、月曜
料金:大人一人$8, 子供一人(6〜17才)$4
http://www.tsunami.org/index/index.html
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藤原 小百合 アンAnne Sayuri Fujiwara担当講師
【インタビュー動画あり】
アーミッシュキルトの盛んなアメリカ・オハイオ州の高校に留学中にアメリカン・パッチワークを習得。メリーランド大学学士号取得。その後ハワイに移住し、マウイ島のハナ・マウイ・ホテルで出会ったハワイアンキルトのベッドカバーに一目惚れをし、ハワイアンキルトを始める。2001年9月11日、ニューヨークで起きた同時多発テロ事件の犠牲者とその家族への追悼キルト、『千羽鶴 フレンドシップキルト』を全国のキルターとともに完成させ、2009年9月、9.11メモリアルに寄贈。2011年7月、ハワイで毎年開催される「キルトハワイ」において、オリジナルデザインの「マノアの森」キルトがグランプリ受賞。ハワイ、日本でのレッスンなど、伝統的なハワイアンキルトを広げるため、日々奔走中。15年以上、パシフィックリゾートの「キルトパラダイス」(http://www.holoholo.world/kawaraban/category/quilt/)を連載中。 日本でハワイアンキルト本を数冊出版。2006年よりホノルルフェスティバルにおける伝統的ハワイアンキルト展を毎年開催。2013年よりイオラニ宮殿の日本語ドーセントのボランティアを始め、現在ハワイ在住31年目。