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2015.12.17

ダニエル イノウエ上院議員

ダニエル イノウエ上院議員

  • 第二次世界大戦の欧州戦線で戦い、生き残った日系米国兵士、ダニエル イノウエ氏は、ハワイ州のみならずアメリカ合衆国にとっても、戦後の抜きん出たリーダーの一人で、葬儀の際にはオバマ前大統領からも頌辞が手向けられました。

53年の長きにわたり、ハワイ州選出連邦議員を務めた Daniel Ken Inouye 氏

気が付かずに通り過ぎる旅客も多いかもしれません。保安検査を終え、ホノルル国際空港24番ゲートに向かう一角に、ガラスに囲まれた展示物があります。ハワイ州選出の下院と上院議員を長年にわたり務めたダニエル イノウエ氏に関する展示です。アメリカ合衆国上院議員の長老であった2012年12月に88歳で亡くなり、今はパンチボール国立太平洋記念墓地に眠っておられます。
 

 イノウエ氏は、1924年(大正13年)ホノルル生まれ。日系人の多く住むモイリイリに育ち、当時、日系の若者が多く学んだマッキンリー高校を卒業しています。真珠湾攻撃の時は17歳。戒厳令の布かれる中、ハワイ大学在学中に多くの日系二世と共に、生まれ育った国、アメリカ合衆国に忠誠を誓い、1943年に陸軍に志願。442部隊に配属され欧州戦線に送られます。イタリアのモンテカッシーノの戦いの後、フランス西ボージュの森でのテキサス大隊救出に参戦。仲間に多くの死傷者を出しながらも再度イタリア戦線に送られ、1945年4月、ドイツの強固な防衛線ゴシックラインで果敢に先頭に立ち、自ら銃弾を浴びながらもひるまず敵陣地を殲滅。生死をさまよい、右手を失い、米軍で戦死者や負傷者に送られる勲章「パープルハート章」を受けた一人でもあります。
 

2013年の春、ビショップ博物館で、イノウエ議員はじめ第二次世界大戦に従軍した二世兵士の栄誉を称える特別展示が行われたことがあり、その展示の中にこんな数字を見つけました。二世部隊の平均身長は160cm、体重は57kg、そしてヘルメットや武器を含めて当時の米軍装備平均重量は80ポンド(36kg余)。これで徒歩による冬の欧州行軍を続け、多くの仲間を失いながら、他の部隊が時間を掛けても成し得なかった難攻不落の独軍陣地を次々と落としていく場面を想像してみて下さい。
 

1944年と思われるイノウエ氏の写真(ビショップ博物館、特別展示より)同じ写真がホノルル空港の展示でもみられる。

イノウエ氏は、第二次世界大戦終結後に除隊し、右手を失ったことから外科医になる道は諦め、GIビルと呼ばれる復員兵に支給される資金を得て、ハワイ大学で政治学を学び、ワシントンDCのジョージワシントン大学で法律の学位を得て、ハワイ準州の政治家の道へ進みます。1959年8月、ハワイは米国五十番目の州になり、ハワイ州選出の連邦下院議員に当選。その後1963年には上院議員に転じ、ハワイ州のためばかりでなく米合衆国全体に長く貢献し、アジア系米国人政治家として偉大な足跡を残しました。

ダニエル イノウエ議員(ビショップ博物館の特別展示より)

種々の会合でイノウエ議員のスピーチを聞く機会に恵まれましたが、その張りのある声と、ユーモアも含んだ説得力のある簡潔な話し方、柔和な内に秘めた目力には、何かいつも惹かれるものを感じました。
 

上院議員の名は「ダニエル」。私的な会合では時々、ピアノに向かいダニーボーイの曲を左手の五本の指だけで奏でることがありました。琴線に触れる思い出です。イノウエ上院議員は2012年になり車椅子を使うようになり、12月に他界。ワシントンDCの大聖堂で行われた葬儀では、バグパイプでダニーボーイが演奏され、ハワイでもテレビ放映されました。イノウエ氏は、我々から見ると日系人の英雄の一人と映ります。しかし、本人としても連邦議員としても、親の生まれた国やルーツに関わらず、あまねく米国人としての立場を貫いた愛国者であったと思います。

パンチボール国立墓地のダニエル イノウエ氏の墓

付帯的な情報・発展情報

次回ホノルル空港を出発する際は、セキュリティーチェック通過後、ゲート24番横まで足を延ばしてイノウエ氏の展示を見て下さい。近くには、読売巨人軍で活躍し、中日ドラゴンズの監督も務めた日系二世のプロ野球選手、ウォーリー与那嶺氏の展示もあります。
天台宗ハワイ別院総長、荒了寛師が第二次世界大戦中の日系兵の話をまとめたUniversity of Hawaiʻi Press 出版の“Japanese Eyes American Heart“は、従軍した兵士本人の証言であり、興味深い資料となっています。

  • 浅沼 正和
    Masakazu Asanuma
    担当講師

    【インタビュー動画あり】
    ハワイ在住通算27年目を迎える。2001年からビショップ博物館で日本語ドーセントのボランティアを始め、2003年に同博物館の会員組織を代表する Bishop Museum Association Council のメンバーに選出され、現在に至る。他に、ハワイ日米協会理事やハワイ日本文化センターのBoard of Governor 等を務め、日布間の文化交流活動に従事している。海外の訪問国と地域の数は95箇所に及ぶ。

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