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2018.10.17

ヤスノリ・デグチ氏のインタビュー②

ここがポイント

多くの二世は、程度の差こそあれ日本語が話せました。
それは、公立学校の後に、日本語学校に通っていたからです。学校に行くためには、当時はどこまでも歩いて行かなければなりませんでした。

日本語学校 ・・・ ヤスノリ・デグチ(ハワイ島ケアラケクア生まれ)

私は10年生まで日本語学校に通いました。
公立学校に通った後に、毎日1時間日本語学校に通いました。

最初は、コナワエナ高校から15分ほどの場所にあったため近かったのですが、通い始めて直ぐにキャプテンクックのコーヒーファームを借りて移り住みましたから、ケアラケクアから2.5マイル(約10キロ)ほど遠くなり、そんなに遠くを歩かなければなりませんでした。
1年生の6~7歳の頃のことですがまだ覚えています。
最後の2年は、日本語学校が大きくなりすぎて教師が足りなくなり、高学年生は校長先生が朝、教鞭をとることになり、そこから公立学校に走らなければなりませんでした。

そのため母からご飯の炊き方を教わり、前夜に仕込んでおいたご飯を自分で炊いて、朝食と弁当を拵えて学校に通いました。

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