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2020.11.24

歴代のハワイ準州知事―第7代目から第12代目まで―

ここがポイント

ハワイ準州知事の第7代目から第12代目まで、生い立ちや成し遂げた事、時代背景、ハワイが州になった頃の様子などを詳しく学びます。



ハワイ準州第七代目知事
ローレンス・マッカリー・ジャッド(Lawrence McCully Judd)
1929年~1934年



支持政党:共和党
前職、就いた主な職業:Alexander & Baldwin, Ltd.、Theo H. Davis & Co. Ltd.(どちらもビッグファイブと呼ばれた会社)のバイヤー、ハワイ準州上院議員、歩兵部隊少佐、アメリカ領サモア知事
任命したアメリカ大統領:フーバー大統領
1887年3月20日ホノルル生まれ、1968年10月4日逝去

祖父がカメハメハ3世のアドバイザーを務めたゲリット・P・ジャッド(Gerrit P. Judd)、父はハワイ王国時代から準州となる間の19年間、最高裁判長を務めたアルバート・F・ジャッド(Albert F Judd)という家に育ち、自らもハワイの社会のために尽力したローレンス・ジャッド氏。ホノルルで生まれ、9人兄弟の末っ子として育ったジャッド氏は、少年時代、ハンセン病を患った人々が小さな舟に乗せられ、モロカイ島に泣きながら向かう様子を目にしました。その光景が忘れられず、「いつかは彼らのためになることをしたい」と決意します。

ハンセン病を患う人々に光を当て、尽力した人生



ペンシルバニア大学を卒業し、会社員をしていた頃の評判はとてもよく、勤勉で誠実な人柄で知られていました。ハワイに戻り、ビッグファイブに数えられる会社で働き、第一次世界大戦では歩兵部隊の少佐として従軍した後、ハワイ準州上院議員として政治に携わる傍ら、ハンセン病を患った人々が隔離されていた、モロカイ島カラウパパを何度も訪れています。

1929年、アイゼンハワー大統領により準州知事に任命されてからは、ハンセン病患者に対する支援のための資金拠出をアメリカ連邦議会に直接働きかけました。その努力は実を結び、カラウパパでの道路や家の改修、店舗やシアターの建設が進み、電気ももたらされました。

知事の職を辞した後は、カラウパパに管理人として2年間居住し、準州衛生局ハンセン病対策部門長として活躍しますが、1953年にアイゼンハワー大統領により、アメリカ領サモアの知事に任命されました。5か月間というわずかな期間でしたが、アメリカ領内の異なる場所で知事となった経験を持つ人物です。

世界大恐慌が襲う

ジャッド準州知事の就任直後の1929年秋、アメリカの株価暴落を発端に、世界的に恐慌が広がっていきました。ハワイにおいても倒産が相次ぎ、パイナップル産業も生産過多となり大打撃を受けました。1930年に入ると、不動産の売り上げも落ちこみ、砂糖の輸出量も大幅に減りました。観光に目を向けると、Judd知事就任前の1927年に大型客船Maloloがアメリカ西海岸とホノルルを結び、ロイヤル・ハワイアン・ホテルも開業。翌年にはアラワイ運河も完成し、ワイキキの観光開発も進んでいく中で旅行者の数も増えてきていましたが、恐慌によりその数も減っていきました。

大恐慌は主に、アメリカ本土の工業分野への影響が大きく、大量の失業者を生み出しました。ハワイでも、「パイナップル・キング」と呼ばれたジェームズ・ドール氏率いるハワイアン・パイナップル・カンパニーも倒産の危機を迎えますが、ビッグファイブの一つ、Castle & Cook, Ltd.による投資と組織改革で、飛躍的に売り上げと利益が増加し、倒産の危機を乗り越えました。


ハワイ準州第八代目知事

ジョセフ・ボイド・ポインデクスター(Joseph Boyd Poindexter)
1934年~1942年



支持政党:民主党
前職、就いた主な職業:弁護士、裁判官
任命したアメリカ大統領:フランクリン・ルーズベルト大統領
1869年4月14日オレゴン州生まれ、1951年12月3日逝去

オレゴン州で生まれ、その後、モンタナ州で育ったポインデクスター氏は、オハイオ・ウェスリアン大学とワシントン大学で学び、モンタナ州で弁護士の資格を得ました。同州にて弁護士、および裁判官としてキャリアを積んでいた中、1917年、ウィルソン大統領により、地方裁判所裁判官に指名されたことで、ハワイへと居を移しました。その後もハワイで法の道を進む中で、ハワイ民主党においてもリーダーとして活躍し、1934年、ルーズベルト大統領によりハワイ準州知事に任命され、同大統領による再度の任命で、計2期に渡って知事を務めました。

2期目の任期中の1941年12月7日、日本軍によりパールハーバーが攻撃され、すぐにハワイに戒厳令がしかれ、軍による統制が始まりました。そのため、ポインデクスター知事は実質、次の知事が任命されるまでの間をつなぐだけの役割を担うのみとなり、1942年にステインバック氏が任命された後は、再び弁護士の道に戻りました。

ハワイに初めて、アメリカ合衆国大統領が降り立つ

フランクリン・ルーズベルト大統領が1934年7月26日、アメリカ合衆国大統領としては初めてハワイを訪れました。軍艦ヒューストンでダイヤモンドヘッド沖に到着した際には、6万人ものハワイの人々が集まり、15隻のカヌーが船を港までエスコートしました。先頭のカヌーに乗っていたのは、カメハメハ大王に扮したデューク・カハナモク氏でした。大統領は車で、オアフ島各地および軍施設を訪れ、ハワイやポリネシアの文化を見学、ワシントンプレイスでの知事との夕食会、古くからの友人に会うなどし、ハワイの人々のホスピタリティーに喜び帰途につきました。ルーズベルト大統領は、この10年後に再びハワイを訪れることになります。

大恐慌後のハワイの経済と新たな旅のスタイルの始まり

大恐慌後のアメリカは、ルーズベルト大統領によるニューディール政策(経済立て直しのために、政府が積極的に経済活動に関与する)が敷かれ、経済再建に大きく社会が動く中、ハワイではパイナップル産業も危機を乗り越え、サトウキビ産業、建築業も好調で、観光業も順調に伸びていきました。

それまで大型客船が活躍していた観光業においては、飛行機が新たな旅の手段として登場します。



1918年に初めてホノルル―モロカイの往復飛行が成功した後、1929年からインター・アイランド・エアウェイズ(現ハワイアン航空)が7人乗りの飛行機でハワイ島嶼間を結びました。そしてついに、1935年4月、サンフランシスコからホノルルまで、20時間の飛行が成功し、翌年から旅客を乗せたフライトが本格化、サンフランシスコからフィリピンのマニラを結ぶ便が、ホノルルでストップオーバーするようになりました。

1941年12月7日、パールハーバー攻撃

ハワイは大恐慌を経験した後、順調に産業を復活させていましたが、その間に世界は少しずつ、戦争に向けて歩みを進めていました。東南アジアへ勢力を広げようとしたいた日本は、長い間アメリカと緊張状態にある中、アメリカの太平洋艦隊を潰しておく必要がありました。

日曜日の朝―その時間は、パールハーバー(真珠湾)に最も多くの軍艦や軍事用の船が停泊するという情報を、日本軍はスパイを通して得ていました。1941年12月7日、日曜日早朝、オアフ島の北から密かに近づいてきた日本軍の爆撃機が、パールハーバーを攻撃。



その約30分後には第2波の攻撃があり、アメリカ軍、およびハワイ在住者への被害は甚大なものとなりました。



7日午前、ポインデクスター知事は非常事態宣言を発し、大統領により戒厳令が敷かれたことで、軍がハワイを統治することになりました。ハワイに駐在する陸軍の司令長官が軍政府知事となり、行政および司法に対する権限を掌握することになりました。



ハワイ準州第九代目知事
イングラム・マクリン・ステインバック(Ingram Macklin Stainback)
1942年~1951年



支持政党:民主党
前職、就いた主な職業:検事、ハワイ準州最高裁判所判事
任命したアメリカ大統領:フランクリン・ルーズベルト大統領
1883年5月12日テネシー州生まれ、1961年4月12日逝去

テネシー州で生まれ、ニュージャージー州のプリンストン大学およびシカゴ大学で学び、法学で博士号を取得した後、1912年にハワイへと居を移しました。ハワイ準州司法長官に任命されて以降、法の世界で活躍していましたが、第一次世界大戦が勃発したことで、軍に従事するために1917年に司法長官の職を辞しています。終戦後、一時カリフォルニアに住んでいましたが、ハワイに戻り、法に関する仕事を再開しました。1934年、ルーズベルト大統領によってハワイの地方検事に任命され、1940年まで務めました。


1941年のパールハーバー攻撃、そして第二次世界大戦でハワイが非常時にある中、1942年にルーズベルト大統領はステインバック氏を準州知事に任命。戒厳令が敷かれ、軍の統制下にあったハワイだったため、知事に任命されても実質的な行政権は軍が掌握している形でしたが、市民による統治に戻すことをアメリカ政府に働きかけ、市民が政府の職に戻れることとなりました。戦時中、そして戦後のハワイの社会立て直しという、難しい舵取りを強い意思で遂行し、1951年まで知事を務めた後は、トルーマン大統領によりハワイ最高裁判事に任命され、再び法の世界で活躍することになりました。

戦時下のハワイ

戦火が太平洋のガダルカナル島、マーシャル諸島、サイパンなどに広がっていくにあたり、ハワイはアメリカ軍の訓練地、そして戦いに必要な物資の供給地としての役割を果たしていくことになりました。アメリカ本土から、軍人はもちろん、軍関連施設建設および施設で働く人々が大量にオアフ島に降り立ち、各地で訓練施設や倉庫、通信施設、燃料タンク、軍人用居住地、病院などが、瞬く間に建てられていきました。

ハワイに在住する日本人、ドイツ人、イタリア人は捕虜として収容所に送られる中、ハワイで生まれた日系二世の中には、アメリカへの忠誠を誓い、アメリカ軍の一員として、第100歩兵大隊、第442連隊に所属し、戦う若者も多くいました。

第100歩兵部隊、第442連隊については、こちらをご覧ください。


軍事政府による統治では、裁判も軍法が適用された軍事裁判となりますが、戒厳令以前には裁判にかけられるような案件ではないものも裁判の対象となり、戒厳令が敷かれてから半年の間に、19,000件もの裁判が行われることになりました。裁判には時間をかけられることもなく、すぐに判決が言い渡される状態で、罰として軍事公債を買わされたり、献血を行うことを強いられるなど、ハワイの人々の間に、軍事政府に対する不満が高まっていきました。ついに1942年12月、ステインバック知事は自らワシントンに出向き、戒厳令の解除を要請。議会でも討議され、行政権、司法権の一部を軍政府から準州政府に戻すことが決まり、 翌43年3月10日、イオラニ宮殿にて式典が行われました。


(式典の様子)

1944年、ルーズベルト大統領が再びハワイへと降り立ちました。各軍事施設を視察し、ダグラス・マッカーサー元帥ほかアメリカ軍の主要な指揮官達と、その後の戦略について会議を設けました。



ルーズベルト大統領は、翌年45年の4月に、脳内出血のため急逝。トルーマン副大統領が大統領となり、新大統領の決断による日本への原爆投下、そして終戦へと向かいます。


1945年9月1日、東京湾に停泊していたミズーリ号上で、日本の降伏文書への署名が行われ、終戦となりました。戦争中、ハワイに集まっていた軍人、戦争関連事業従事者の人々は、一斉に本土に帰っていきました。


ハワイ準州第十代目知事
オレン・エセルバート・ロング(Oren Ethelbirt Long)
1951年~1953年



支持政党:民主党
前職、就いた主な職業:教師、社会福祉士、ハワイ準州長官
任命したアメリカ大統領:トルーマン大統領
1889年3月4日カンサス州生まれ、1965年5月6日逝去

カンサス州に生まれ、後にテネシー州のジョンソン・カレッジ、ミシガン大学、コロンビア大学、ペンシルバニア大学で学び、1912年に教師としての一歩を踏み出しました。1917年、ハワイ島ヒロのソーシャル・ワーカー(社会福祉士)としてハワイへと居を移し、ハワイ島、カウアイ島、オアフ島で教師の職も務めました。1934年、当時のポインデクスター知事により教育局長に任命され1946年まで務め、その間にハワイの高校の数は、9校から24校に増えています。

1946年、トルーマン大統領によりハワイ準州長官に任命された後、1951年に同大統領により準州知事に任命されました。大統領が民主党のトルーマン大統領から、共和党のアイゼンハワー大統領に代わったことで、ハワイ準州知事も交代の運びとなり、ロング知事の任期は2年間という短い間でしたが、ハワイが準州から州になることを強く提唱しており、後の1959年にハワイが州となった際には、選挙により、州として最初の上院議員に当選、ちなみに、下院議員に当選したのはダニエル・K・イノウエ氏でした。



ハワイ準州第十一代目知事
サミュエル・ワイルダー・キング(Samuel Wilder King)
1953年~1957年



支持政党:共和党
前職、就いた主な職業:軍人、アメリカ連邦議会議員
任命したアメリカ大統領:アイゼンハワー大統領
1886年12月17日ホノルル生まれ、1959年3月24日逝去

ハワイアンの血を引く、ホノルル生まれのキング氏がアイゼンハワー大統領に任命されたことは、地元の人々に好意的に受け止められました。父、ジェームス・A・キングは1860年代にスコットランドから移住し、商船の船長を務めた後、ハワイ王国終焉後の暫定政府およびハワイ共和国下で内務省長官を務めた人物。そして、母親はオアフ島の首長の子孫にあたります。

ハワイで教育を受けた後に、クヒオ王子により指名を受けてメリーランド州の海軍兵学校に入学し、1910年から軍人となりました。第一次世界大戦での従軍を含め、1924年まで軍人の職を務めた後、ハワイに戻り、不動産ビジネスを始めます。現在のホノルル市郡議会議員にあたる職を務めた後に、アメリカ連邦議会議員の一員として、ハワイ代表を1942年まで続けました。ワシントンD.C.の議会において、ハワイが不本意な立場に置かれていることを深く憂慮し、議会議員となってからは議会に対し、ハワイの現状を伝え、準州に暮らすハワイの人々が、アメリカ国民として、同等な扱いを受ける日が来ることを願い、ハワイが州になることを強く推し進める立場を取り続けました。


第二次世界大戦が勃発すると海軍に戻り、大佐を務めました。戦後、ハワイに戻ってからは、ハワイの昇格を目指す委員会に属し、会長を務めるなど、「ハワイ州」の実現に向けて力を注いでいた中、1953年にアイゼンハワー大統領により知事に任命されました。

1957年に知事の職を辞した後は、ハワイ準州下院議会議員に当選し、ハワイが州となった際には、最初の州知事になることを目指していましたが、志半ばで亡くなられました。アイゼンハワー大統領が、ハワイを50番目の州とする法(Hawaii Admission Act)に署名する1週間前のことでした。キング準州知事はパンチボウル国立太平洋記念墓地に埋葬されました。

勢いをつける労働組合と民主党

第二次世界大戦以前から、ハワイではプランテーションで働く労働者が待遇改善を求め、何度もストライキが発生していましたが、戦争が始まって戒厳令が敷かれ、軍による統治が始まってからは、転職の禁止、給与の凍結、休日・残業手当もなく、労働者が待遇について経営者と交渉することさえできなくなりました。それまでに会員を増やしてきていた労働組合は1944年に戒厳令が解かれると、政治に関与するようになり、1945年には農業従事者による組織の設立を可能にする法律の可決を勝ち取り、ストライキの規模も大きくなっていきました。1946年に行われたストライキには、21,000人が参加し、79日間のストライキで、経営側に2000万ドルの損失を与え、1949年の178日にもおよぶストライキでは、ハワイの経済に1億ドルもの損失を与えるに至りました。

第二次世界大戦後、社会を大きく動かすことになったのが、労働者や、日本人を含め移民が多く支持する民主党でした。戦争で活躍した日本人部隊(第100歩兵大隊、第442連隊)の兵士達がハワイに戻るにあたり、彼らを二流の市民にしてはいけないという信念を持って活動していたのが、民主党支持者であり、後に第2代目州知事となるジョン・A・バーンズ氏、日系二世の政治家ミツユキ・キド氏、労働組合の組合長のジャック・カワノ氏、戦時中は準州緊急事業委員会長を務めたアーネスト・ムライ氏、弁護士のチャック・マウ氏でした。彼らの働きにより、1954年に行われたハワイ準州上院および下院議員選挙において、両院共に、民主党の大勝利をもたらしました。

しかしながら、この大勝利の前に立ちはだかったのは、1953年に準州知事に任命されていたキング知事でした。上・下院にて通過した法案について、最終的な認可を与える立場である知事という立場にいたのが、共和党員として積極的に活動していたキング知事だったのです。知事は準州議会で可決された法案の71件を反故にし、認可したのはわずか2件だけでした。

知事は大統領によって任命されていましたので、ハワイの民意を反映した人選とは言い難い状況だったといえる時代です。ハワイが州になることで、知事をハワイの住民が選挙で選ぶことができることになる―民主党はこの点をハワイの人々に強く呼びかけるようになりました。


ハワイ準州第十二代目知事
ウィリアム・フランシス・クイン(William Francis Quinn)
1957年~1959年



支持政党:共和党
前職、就いた主な職業:軍人、弁護士、ドール・パイナップル・カンパニー社長
任命したアメリカ大統領:アイゼンハワー大統領
1919年7月13日ニューヨーク州生まれ、2006年8月28日逝去

ニューヨークで生まれ、幼少期に家族と共にミズーリ州に渡りました。同州のセント・ルイス大学で学んだ後、ハーバード法科大学院で学んでいましたが、第二次世界大戦により学業が中断されてしまいます。海軍に少佐として従事した後、学業に戻り、1947年にハワイの弁護士事務所に仕事を得て、ハワイへと居を移しました。その後10年間、弁護士として活躍していましたが、1956年にハワイの州昇格を目指す委員会の会員となり、政治活動を始めました。

1957年、アイゼンハワー大統領がクイン氏を準州知事に任命します。1959年にハワイが州となってから初めて行われた知事選でも、対抗馬のジョン・A・バーン氏を破って知事に当選した、準州最後の知事、そして州として最初の知事となった人物です。準州から州に移行するにあたって必要となる手続き、新たな政策への対応、ストライキへの対処など、クイン知事およびハワイの政府は、膨大な仕事に対応していく必要がありました。

後の1962年の知事選では、クイン知事は再選を果たすことはできませんでしたが、再び弁護士の道に戻り、その後ドール・パイナップル・カンパニーの社長を務めました。1976年には、再度政界に戻るべく、アメリカ上院議員に立候補しましたが、日系人のスパーク・マツナガ氏に敗れました。


主要産業に見え始めた変化

移民制限、第二次世界大戦などの影響で人件費が高騰し、プランテーションでは大規模な機械化が行われていった結果、1950年から60年にかけて、サトウキビ、パイナップル栽培など農業に携わる労働者の数はおよそ半分にまで減っていました。一方で、ハワイに駐在する軍人の数が大幅に増え、それに伴い、軍関連施設および軍人に対するサービスや物品を提供する事業が拡大していきました。

また、観光業も成長してきており、主にオアフ島を中心に、1951年には年間50,000人だった観光客数は、1960年には6倍の300,000人にまで増えています。一方でオアフ島以外の島では、農業の機械化が進められ、パイナップル畑が閉鎖されることで、失業率が12~13%にもなっていました。オアフ以外の島を生き残らせるためには、観光に力を入れるべきだと考えたクイン知事は、各島の状況を調査し、観光地として開発できる場所を選定し、空港を建設、道路や上下水道管の敷設などのプランを立ち上げ、当時の社会的ニーズに合わせて、農地や宅地を増やすなど、土地改革と開発に力を注いでいきました。

「ハワイ準州」から「ハワイ州」へ

ハワイが州になることについてハワイで話し合われていたのは、実際に州となった年の10年前でも20年前でもなく、1900年代初頭にまで遡ります。ハワイが準州として新たな一歩を踏み出したばかりの1903年、当時、新聞の編集者であったウォレス・ファーリントン氏(第六代準州知事)が、紙面上でハワイが州になることについて既に言及していました。知事になって以降も、州昇格に向けての姿勢は変わっていませんでした。アメリカ連邦議会議員であったクヒオ王子も、1919年にハワイを州とする法案を提出しましたが、その時は時期尚早と却下されています。

1934年、ハワイ住民の間からも、ハワイが州になるべきだと声を上げるきっかけとなった法案が可決されました。アメリカ本土での砂糖産業を守るため、本土以外で生産されている砂糖に対して関税を課し、助成金や砂糖の生産量の割合をアメリカ農務省長官が決めるという、いわゆる「砂糖法(The Jones-Costigan Act)」において、ハワイは外国扱いとなり、高関税を課せられ、アメリカ本土でのハワイ産の砂糖取り扱い量が激減することになりました。ハワイの砂糖産業が大打撃を受けるため、国に対して裁判で争うことまでしています。ハワイが州であれば状況は違っていただろうと、人々はあらためてハワイが準州であることの意味を思い知らされた形となりました。

「ハワイを州に」というムーブメントは、30年代を通して強まり40年代にはトルーマン大統領も議会にハワイの州昇格を働きかけ、47年、50年と州昇格法案が提出されましたが、一部上院議員の反対があり、話はなかなか進みませんでした。

1954年、業を煮やしたハワイの人々は、ハワイの州昇格を請願すべく、大規模な署名活動を行いました。ダウンタウンのビショップ・ストリートに延々1.6㎞に渡り署名用の紙を連ね、116,000人の署名が集まりました。当時、アラスカがハワイと同時に州昇格を目指していたため、アラスカとハワイを同時に州とする法案が考えられていましたが、ハワイを切り離し、アラスカの件が先に議会に提出されました。順調に法案は可決と運びとなり1958年、アラスカを州とすることが決定しました。そしてついに翌年の1959年3月12日、上・下院の賛成多数でハワイの州昇格が決定し、3月18日にアイゼンハワー大統領が署名。ハワイ初となる州知事選挙が7月28日に行われ、クイン準州知事が勝利してクイン州知事となり、そして8月21日、アイゼンハワー大統領が正式にハワイを50番目の州であることを宣言し、「ハワイ州」の誕生となりました。


(星条旗の49個の星に、一つ星が増えることを指で知らせる女性)

1954年の大署名活動、州昇格に関する写真はこちらに多数掲載されています。


ハワイ準州時代の後半に起きた、恐慌、真珠湾攻撃、戦争、準州から州へと、激動の時代の重要な舵取りを担った第7代目から第12代目までの知事。ついにハワイは、念願だった「州」となり、人々は「二流の市民から一流の市民へ」という自信を胸に、また新しい一歩を踏み出していきます。準州時代は、知事はアメリカ大統領による任命により決められていましたが、州となってからは、ハワイの人々が自ら選挙で、州のリーダーを決めることが可能になりました。「州知事」として、どのような方々が活躍したのかも、ぜひ学んでみましょう。

 
  • ロバーツさゆり
    Sayuri Roberts
    担当講師

    東京生まれ。筑波大学・比較文化学類にて北米の歴史・文化を学び、英会話スクールの講師等を経て、結婚を機にハワイへ移住。Native Hawaiian Hospitality Association主催の歴史ツアー「Queen's Tour(当時)」に参加し、ツアーガイドの方に、日本語の通訳を頼まれたことから、2004年、ガイドとして登録、研修の上、日本語の歴史ツアーを始める。2006年、「Queen's Tour」の終了を機に、ツアーの継続について主催者の了承を得て、Hawaii Historic Tour LLCを発足、「ワイキキ歴史街道日本語ツアー(当時)」(その後「ワイキキ歴史街道ツアー」に改称)を開始。2007年、「ダウンタウン歴史街道ツアー」もスタート。テレビ、ラジオ、雑誌等、メディア出演多数。 『お母さんが教える子供の英語』(はまの出版)著者。

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