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2016.02.12

第二次世界大戦武勲記念史跡

第二次世界大戦武勲記念史跡

美しい入江に戦争の歴史を見つめ直すことの出来る場所、パールハーバー

貿易風に向かってホノルル国際空港に着陸する航空機の左側の窓から見える、鳥の足先のように丘に向かって奥深く広がる入江が真珠湾です。この軍港では、日本帝国海軍の攻撃で沈められた戦艦アリゾナ号や、東京湾上で日本が降伏文書に署名をした戦艦ミズーリ号などが見られ、それらを総称して第二次世界大戦武勲記念史跡と呼んでいます。

パールハーバーは元々、プウロア(Puʻu loa=長く広がった丘)或いはワイモミ(Wai momi=真珠の水域)と呼ばれる浅い入江でした。米海軍が使用するようになり浚渫が行われ、今では航空母艦も入港できる米海軍の太平洋の要衝として使用されています。

ホノルル空港着陸直前の航空機から見た真珠湾

1941年12月7日朝(日本時間では8日未明)、日本帝国海軍の真珠湾攻撃を受けた米国戦艦の内、フォード島の東側に沈められたままの戦艦アリゾナの上には、船本体と交差するように記念館が建てられ、海軍の運行するボートで訪れることが出来ます。ビジターセンターでは、ボートに乗船する前にビデオで真珠湾攻撃の日の様子を知ることが出来るほか、展示会場が在り、当時の状況を今に伝えています。

アリゾナのビジターセンター近くには、第二次世界大戦中に日本と戦った米国の潜水艦ボーフィン号も展示されていて、内部を見学することが出来ます。

真珠湾の中央に在る島、フォード島には、太平洋戦争が終わり、東京湾の艦上で重光外務大臣が降伏文書に署名した戦艦ミズーリが係留されていて、これも内部を見学出来ます。マイティー モーとも称されるこの大型戦艦は、湾岸戦争時に装備を新しくして再就役した後に退役。その後真珠湾に係留され、1999年から記念館として公開されています。

アリゾナ記念館(右)と戦艦ミズーリ(左)

ところで、真珠湾に関するハワイ王国時代の出来事を一つ紹介しておきます。捕鯨の時代に続いて王国後期の経済を支えていたのは砂糖産業でした。良質の砂糖を生産し米合衆国に販売していましたが、更なる輸出強化を図るために米国とハワイ王国との互恵条約(Reciprocity Treaty)締結が求められ、カラカウアは王の選挙の際の公約に互恵条約締結を掲げて選出されました。第七代の王になってすぐ、米国との交渉を進め自らもワシントンDCに赴き、1876年に条約締結にこぎつけます。但し、条約締結に際してパールハーバーが米海軍の給炭補給基地として使用されることにはハワイアンの人々の根強い反対があり、交渉には慎重な姿勢で臨みました。しかし、カラカウアが王であった時代の後期、ハワイは米国から互恵条約改定を迫られ、1887年に米海軍によるパールハーバーの使用権が盛り込まれた改定条約成立を認めざるを得なくなります。米国による真珠湾使用は、思いのほか早い時点で始まっていたことが分かります。

さて、将来を担う多くの若い世代に真珠湾の歴史を知ってもらい、戦争の歴史を日米双方の立場から見直して理解し、将来の糧とすることが肝要です。戦後70年が経ち、パールハーバーを見つめる日米の目も変わりつつあります。その一例として、新潟県長岡市の山本五十六記念館と戦災資料館は数年前からアリゾナ記念館と相互交流を始め、長岡で真珠湾の展示物を紹介し、アリゾナ記念館でも山本五十六を紹介するコーナーを新設する試みがなされ、同時に長岡とホノルル間の学生相互交流も定着化しています。

戦後70周年にあたる2015年12月7日の真珠湾攻撃式典の式辞では「和解」を強調する論調が多く語られていました。

フォード島から見たアリゾナ記念館

付帯的な情報・発展情報

真珠湾の米海軍基地と、ホノルル空港に隣接する空軍基地は、パールハーバー ヒッカム ジョイント ベースと云う名で、現在は統合された一つの基地として運営が行われています。

  • 浅沼 正和
    Masakazu Asanuma
    担当講師

    【インタビュー動画あり】
    ハワイ在住通算27年目を迎える。2001年からビショップ博物館で日本語ドーセントのボランティアを始め、2003年に同博物館の会員組織を代表する Bishop Museum Association Council のメンバーに選出され、現在に至る。他に、ハワイ日米協会理事やハワイ日本文化センターのBoard of Governor 等を務め、日布間の文化交流活動に従事している。海外の訪問国と地域の数は95箇所に及ぶ。

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