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所用時間5min
2015.05.28

パンチボウル国立太平洋記念墓地

この丘は、カメハメハがハワイの島々を統一した時の戦場でもありました

  • ホノルルのダウンタウンを眼下に一望出来る風光明媚な丘「パンチボウル」は、ハワイ王国成立の歴史上、重要な場所でもありました
  • パンチボウルの丘は以前、プオヴァエナ(Pūowaena) と呼ばれていました。Puʻu は丘、 Waenaは真ん中や中間を意味します。船やカヌーでホノルルへ入港する時は、オアフ島の南の外洋から見て、右側(東)にダイアモンドヘッド、左(西)に、ホノルル空港の北側にあたるソルトレイクの丘を見て、「真ん中」のパンチボウルの丘を目指して港に向かいました。

パンチボウルの丘は、1795年にカメハメハがオアフ島で戦闘を繰り広げた場所の一つでした。ハワイ島から出兵してマウイ島を手中に収めたカメハメハの軍はオアフ島を目指し、ワイキキからカハラにかけて上陸。現在のロイヤルハワイアンホテルのあたりに陣を張り、パンチボウルの丘からホノルルのダウンタウンの山側、そしてヌウアヌパリへと敵軍を追い上げて勝利を収め、ハワイ諸島を統一していきます。

 

 ハワイ州議会ビルや、ホノルル市庁舎 (Honolulu Hale) の山手に在る、すり鉢型のパンチボウルの丘は現在、米合衆国の国立太平洋記念墓地 (National Memorial Cemetery of the Pacific) として使われています。太平洋戦争終結後、1949年に使用が開始され、第二次世界大戦ばかりでなく朝鮮戦争やベトナム戦争で亡くなった兵士の名も刻まれています。


地面に置かれた墓標には、日系と思われる氏名も多く見かけます。そして墓標には、それぞれ、キリスト教の十字架ばかりでなく、正三角形を逆に二つ重ねたユダヤ教のダビデの星や、仏教の法輪も刻まれていて、何人も宗教にこだわることなく葬られていることが分かります。
休日には、墓に花を供えて、近くでくつろぐ人々の姿を多く見かけますが、5月の「メモリアルデー」と11月の「ベテランズデー」と呼ばれる退役軍人を称える日には、それぞれの墓に小さな米国旗が飾られ、一年の内で一番美しいパンチボウルの光景が見られます。

メモリアルデーのパンチボウル国立太平洋記念墓地

墓地の建物の中央に在るチャペル。十字架を中心にダビデの星と法輪も。

第二次世界大戦中、欧州戦線に従軍しイタリアで右手を失い、パープルハート章を受けた日系二世、ダニエル イノウエ氏は、1959年にハワイが米合衆国の五十番目の州になってから、ずっと連邦のハワイ州選出議員として活躍していましたが、2012年12月17日に88歳で死去。彼もまた、このパンチボウル国立太平洋墓地に埋葬されています。

 

ダニエル イノウエ氏の墓

さて、パンチボウルの丘は、形からしても分るとおり火口の跡です。オアフ島を形成しているコオラウ山脈とワイアナエ山脈のもとになった二つの火山は、大まかに云って、今からおよそ三百五十万年前の年代に、現在のハワイ島東部のあたりで生まれ、太平洋プレートの動きとともに西北西に移動してきましたが、パンチボウルは、それに比べて生成年代が十万年単位の若い火山で、ダイアモンドヘッドと同じく水蒸気爆発により頂上が陥没して出来たクレーターです。その形はタンタラスの丘から見下ろすと、良く分かります。

タンタラスの丘から見たパンチボウル。遠景はホノルル国際空港

  • 浅沼 正和
    Masakazu Asanuma
    担当講師

    【インタビュー動画あり】
    ハワイ在住通算27年目を迎える。2001年からビショップ博物館で日本語ドーセントのボランティアを始め、2003年に同博物館の会員組織を代表する Bishop Museum Association Council のメンバーに選出され、現在に至る。他に、ハワイ日米協会理事やハワイ日本文化センターのBoard of Governor 等を務め、日布間の文化交流活動に従事している。海外の訪問国と地域の数は95箇所に及ぶ。

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