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2020.09.11

古いハワイ語と新しいハワイ語

ハワイ語の歴史に沿いながら、ハワイ語がどのような背景のもとに現在に至るか、その言語がどのように変化していったかについてお話ししたいと思います。

 

ハワイ語の歴史をたどってみると1778年にキャプテンクックが初めてカウアイ島に降り立った際、ネイティブたちが話していた言葉を記録されたのが最も古い文献だと言えると思います。

ポリネシア諸語に属するハワイ語はタヒチ語やマオリ語と類似しており、ハワイ来島以前にタヒチなどとコンタクトのあったキャプテンクックはタヒチ語とジェスチャーを使ってハワイのネイティブたちとコミュニケーションをとったと言われています。

 

古いハワイ語と新しいハワイ語という分類は、どのタイムラインを持って「古い」「新しい」と言うかで違ってきますが、まずは歴史の中でこのキャプテンクック来島の1778年の前後で考えることができるでしょう。
 

キャプテンクック来島前後のハワイ語の変化

当時のネイティブハワイアンたちの生活を考えながら、彼らの生活の身の回りにあった物、彼らの職業、宗教、社会構成をたどっていくと、使われていたと思われる言葉を推測することができるでしょう。

もともとハワイに生息していた動物、植物は限られていたと思われますが、ポリネシア人たちの移住によって持ち込まれた動植物は沢山ありました。しかし当時の人々の社会構成や生活習慣、またそこから発生する感情などから必要とされる言葉の語彙はそれほど多くはなかったのかもしれませんし、あるいは現在使わないような古文のようなものがあったかもしれません。

 

キャプテンクックの来島によりネイティブハワイアンたちは今まで見たこともなかったものに触れていきます。

彼らの乗っていた大きな帆船、洋服を着た乗員たち、彼らの持ち物、特に銃などの武器。記録にはキャプテンクックがギフトとして持ち込んだものは3頭のヤギ、2頭のイギリス豚、そしてメロンとカボチャと玉ねぎの種などが記されています。そのほかにも船員が水を汲みに行った際、彼らのバケツからボウフラが川に落ち、そこからハワイに蚊が生息することになったそうです。

またネイティブとトレードしたものとしては釘。これは豚2頭と一本の釘だったそう。女性たちは自分の体と交換に鏡や色付きのビーズなどを受け取り、男性は斧、短刀、ナイフ、シャツ、帽子などがトレードされたようです。もちろん人とのコンタクトによって、それまでなかった病気なども入ってきたわけです。

 

ちょっと余談にはなりますが、キャプテンクックが来島する以前にハワイ語で「釘」と言う言葉がすでにあったと言う話があります。それは木片が流木となって島に流れ着いた際に釘が刺さっていたのだとか。漂流物としてハワイに流れ着いたものは、他にもあったかもしれませんね。
 

キャプテンクック来島後も西洋の文化は次々とハワイにやって来ます。バンクーバー船長がハワイに持ち込んだのは家畜の牛、ガチョウ、違う品種の羊とヤギなどでした。
 

1820年宣教師たちの来島

アメリカのニューイングランドからやって来た宣教師たちの来島によっても、沢山の新しいものや考え方に伴う言葉が持ち込まれたのではないでしょうか。

宗教にまつわる言葉、聖書や賛美歌、そして教育と教育に関するものなど、新たな言葉が生まれたと思われます。

口頭言語だったハワイ語に文字ができ、言葉を筆記するようになったハワイアンの識字率は40年ほどの間に0%から95%までにも上がったほどでした。

1834年から始まったハワイ語新聞は100年以上続き100種類以上の新聞が刊行され、のべ125,000ページにも及ぶハワイ語が書き記されたわけです。

この新聞によっても当時使われていた言葉を知る手がかりとなります。

 

その後の歴史的背景

ハワイ王朝時代を経て、1893年にはハワイ王朝転覆、1898年にはハワイがアメリカ合衆国に併合されてハワイ準州の時代になります。1959年にハワイはアメリカの1州としてハワイ州となり現在に至りますが、この間にハワイ語は衰退の一途を辿ることになります。

特にハワイ準州時代はアメリカ人としての教養を高めるための教育が推奨され、ハワイ語を使う事さえ規制されていたような時代です。1896年には公立学校でのハワイ語使用禁止、つまりはハワイアンの母国語が剥奪されたのです。

そのような中、学校や社会ではハワイ語を使うことができなくても、家庭やフラハラウなどハワイ文化を守る立場の人々はひっそりと水面下でハワイ語を使い続けていたのです。

 

ハワイアンルネッサンス

ハワイ大学マノア校と東ミシガン大学の言語学者の共同事業で作られた「絶滅危惧言語カタログ」によると世界では1960年以降30近い言語が消滅していることが記されています。

しかしながらハワイでは1970年代になるとハワイアンは自分たちのアイデンティティーを守るため、また自己の誇りを復興させるためのハワイアンルネッサンスの動きが活発になります。

先祖代々伝えられて来た民族の叡智を途絶えさせないために、様々な分野での文化復興の動きが盛んになり、その要となるハワイ語教育の見直しがスタートしました。

1978年にはハワイ語は英語と並びハワイ州の公用語として認定され、公立学校の必須科目にもなりました。

1986年からはハワイアンイマージョンプログラムと呼ばれるハワイ語一貫教育プログラムがスタートします。

マオリ族の「コハンガレオ」ムーブメントに影響を受け、1989年よりPūnana Leo(プーナナレオ)「言語の巣」と呼ばれる幼児教育がスタートします。

プーナナレオを卒業するとイマージョンプログラムのK-12の高校までの教育が整い、そしてハワイ大学ヒロ校には大学院生が母国語で博士号が取得できるまでになったのです。

 

新しいハワイ語

ハワイ語の教育が盛んになる中、時代の変化も伴い、それまでにハワイでは使われなかった言葉をハワイ語化する必要が出て来ます。

1987年 Kōmike Huaʻōlelo(コーミケ フアオーレロ)「単語委員会」が立ち上げられ、ハワイの先祖たちが知らなかったコンセプトやマテリアルカルチャーの単語を作るために、ネイティブスピーカーたちが集まり、編成されたのです。集められたネイティブスピーカーの大半は年長者ですでに亡くなられた方々もいらっしゃいますが、現在代表はハワイ大学ヒロ校 Ka Haka ʻUla O Keʻelikōlani at Hiloの准教授であり、プーナナレオの共同創設者でもあるラリー・キムラ氏。



単語委員会が集めた言葉はMāmaka Kaiao (マーマカ カイアオ)「夜明けへと届ける」と言う意味のハワイアンボキャブラリー集として発行されています。

新しい単語は以下のようなガイドラインに沿って作られています;

プクイとアルバートによるハワイ語辞書の最新版にあるもの

*ネイティブによって使われた単語(辞書内に有る無しに関わらず)

*機能や特徴を説明的に表したもの

(例:mikini holoi lole ミキニ ホロイ ロレー機械 洗う 服で洗濯機)

*辞書内にある既存の言葉に意味を付け加えたもの

*外国語よりハワイ語化されたもの

(例:poni ポニ 英語のパープルより)

*言葉のエレメンツを組み合わせてできたもの

(例:pūnaewele - pūnāwelewele + ʻōnaehana のnae)

*言葉を短縮したもの、またその短縮語を組み合わせたもの

(例:pepili - pepa + pipili でステッカー)


1990年代前半ハワイ大学ヒロ校に留学した当時、私はこのようなハワイ語教育の発信センターとなるHale Kuamoʻo(ハレ クアモッオ)のオフィスで学内のお仕事をさせていただく機会を得、データ処理や印刷、製本など様々なプロセスをお手伝いさせていただきました。その後ケアアウにあるKe Kula O Nāwahīokalaniʻōpuʻuと言うイマージョンスクールで教鞭をとらせていただきました。

全ての科目をハワイ語で学ぶイマージョンプログラムの中では大学で学んだ事のない言葉が溢れていたのを今でも記憶しています。

教育の現場では常に新しい言葉の必要性が出て来て、その度にコミッティーで作られる言葉は新しく書き換えられて行きました。

これは私たちが時代を生きて進んでいくために、生きた言葉も同じように時代を超えて進化していかなくてはならないと言う事です。

マーマカ カイアオの委員の一人でもありハワイ大学ヒロ校の教授でもあるカレナ・シルバ氏の言葉にはハワイ語を守って来た人々の熱い想いが集約されていると思います。

”いかなる文化においてもその根は言葉にあります。
ハワイ文化が生き残るためには、ハワイ語が繁栄することが必至です。
ハワイの母国語の大切なギフトを新しい時代の夜明けまでと
断固として運び続けましょう。”

  • ミイラニ・ヨシコ・クーパー
    Mi'ilani Yoshiko Cooper
    担当講師

    Kahaluʻu在住
    Halau Kīhene Pua Uluwehi (ハラウ キーヘネプアウルヴェヒ オアフ島/神奈川)主宰、クムフラ
    Lamakū Hawaiian Study Education (ラマクーハワイアンスタディーエジュケーション)主宰
    アロハフロウファウンダー
    プランツメディスンメイカー
     

    ハワイ大学ヒロ校ハワイ学科卒業 ハワイアンイマージョンスクールNāwahīokalaniōpuʻu(ナーヴァヒーオカラニオープウ)で教鞭を執る
    ハワイ大学マノア校言語学修士
    2006年正統な伝統儀式のもとクムフラの称号を与えられる
    フラヘブン(雑誌)に2年半連載ページを執筆
    個人、企業向けの様々なハワイ文化講座を指導
    現在ビショップ博物館Lā Kūleʻaプログラムのフラクラスを担当
    アンティ マイキのフラを継承するクムフラ、メイ カママル クラインの元、指導者としてフラを学び2006年8月にウニキを経てクムフラの称号を与えられる
    ジョニー ラム ホー、レイ フォンセカの元よりメリーモナーク フラ フェスティバルに出場経験多数
    カジメロブラザースやハパなど有名ミュージシャンのコンサートの出演経験多数
    また、ダンサーとしての体作りの必要性からヨガを始め、ハワイの文化とヨガを融合させた Alohaflowを独自で考案
    ハワイの価値観をもとにHoʻoponopono的なライフスタイリングや自然と調和できるサステイナブルなライフスタイルを目指している

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