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所用時間5min
2014.01.17

第2次世界大戦、そして米国50番目の州へ

ここがポイント

1941年12月7日、日本がパールハーバーを攻撃
・戦後の日系二世の活躍が50番目の州ハワイを支えていきました。
・一度消えかけたネイティヴ ハワイアンの文化は1970年代以降、復興を遂げています。
・ハワイ語が州の公用語となった現在、ハワイ語を話す人口も増えつつあります。
・第二次世界大戦が勃発し、多くの日系二世の人々が欧州戦線に駆り出された時、同じ日本人の子でありながら、日本人移民が多く住むハワイの日系二世と、多くの西欧人の中で少数が暮らしていた米本土の日系二世の間には、考え方や生活習慣に既に差が出ていたことが、語られています。


1941年、日系人がハワイで築いてきたものが、一挙に崩れ去っていきます。
死傷した兵士に授与されるパープルハート章同年12月7日(日)午前7時55分(日本時間では8日未明)オアフ島の北の洋上を航海中の日本帝国海軍航空母艦「あかぎ」から飛び立ったゼロ戦が真珠湾を攻撃し、太平洋戦争が勃発しました。

ハワイの日系人は米本土での状況と違い、準州内の人口の多数を占めていました。当時の準州内の日系人人口は16万人。その内、一世は3万5千人にすぎず、この時代の主導権は二世の手に渡っていました。
太平洋戦争勃発時、ハワイ生まれのエモンズが米国政府を説得し、人口の40%を占める日系人全員が収容所に入ることはありませんでした。しかし、政府関係者、仏教神道関係者、教育者や日本語学校教師、商工会議所関係者、県人会幹部などの2千人がホノルル港のサンドアイランドに送られ、その内7百名が米本土の収容所に送られました。真珠湾の西のホノウリウリと呼ばれる地域の谷あいにも一箇所、戦後忘れ去られていた収容所が存在していたことが解かり、現在ハワイ大学により発掘調査が行なわれています。

米国籍を持ちながらも敵性外国人とみなされた二世の日系人の間で、米国への忠誠をどう表わすかが問われました。
武器を取り上げられた日系二世は当初工兵隊に志願し、後に100大隊、そして442連隊が組織されると、多くの二世が志願し欧州戦線へと送られました。堅固なドイツ軍の砦への攻撃を強いられ、モンテカッシーノの戦いなど、イタリア戦線で多くの血を流し、その後もフランス東部のボージュの森で孤立していたテキサス大隊の救出に多くの犠牲を強いられました。

日系二世は、その命をかけて米国人としての名誉を勝ち取ったのでした。死傷した兵士に贈られるパープルハート章を、9486名もの日系兵士が授与されていることからも、如何に多くの血が流された過酷な戦いであった事が解ります。米国史の中で最大の犠牲がはらわれた部隊でした。 日系部隊は、442部隊と100大隊の他に、通訳や諜報にあたったMISと、1399工兵大隊が知られています。

ハワイに生還した二世兵士は、GIビルと呼ばれる復員兵に支給された資金を基に大学などの高等教育を受け、政治家、医者、弁護士、教育者や事業主になり、戦後のハワイを支えるリーダーとなりました。ハワイ準州の政治はそれまでの共和党一辺倒から民主党主体へと体制が変化し、ダニエル井上 スパーク松永 パッツィー・タケモト・ミンク等の著名な日系政治家を産み、1959年(昭和34年)にアメリカ合衆国第50番目の州の誕生を迎えます。


死傷した兵士に授与されるパープルハート章
ビショップ博物館の展示物より


この間、ハワイアンの人々は、米国の制度や教育の中で、固有の文化と言葉を失っていきました。
しかし米本土で公民権運動が盛んになり、1970年代になるとネイティブ アメリカンの復権や、同胞であるにニュージーランドのマオリの復権などに刺激を受けて、「ハワイアン ルネッサンス」と呼ばれるネイティブ ハワイアンの文化復興の動きが活発になりました。1980年頃には2千人ほどしか話せる人が居なくなってしまったハワイ語も、固有の言語なくして固有の文化は残せないとの考えの下、小さい時からハワイ語に親しませる幼稚園や学校も認められ、消滅しかけた言語を取り戻しています。
そしてフラも更に盛んになりました。

現在のハワイは、ハワイアンの人々の他に、米本土やアジア各地、ポリネシアやマイクロネシアから移住した人々により成り立っています。ハワイ固有の文化を尊重しつつ、それぞれの文化が融合しており、米国ではあるものの、他の49州とは一味違う生活習慣が見られます。
2010年の人口調査によるとハワイ州の総人口は136万人余で、その内、アジア系人口の比率は全米で一番高く38.6%を占めています。この年の調査で、始めてフィリピン系の州内人口が日系の数を抜いたことが特筆されます。

 


故ダニエル井上上院議員 ビショップ博物館の展示物より

  • 浅沼 正和
    Masakazu Asanuma
    担当講師

    【インタビュー動画あり】
    ハワイ在住通算27年目を迎える。2001年からビショップ博物館で日本語ドーセントのボランティアを始め、2003年に同博物館の会員組織を代表する Bishop Museum Association Council のメンバーに選出され、現在に至る。他に、ハワイ日米協会理事やハワイ日本文化センターのBoard of Governor 等を務め、日布間の文化交流活動に従事している。海外の訪問国と地域の数は95箇所に及ぶ。

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