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所用時間5min
2020.08.18

チャイナタウン

ここがポイント

歴史的な街並みが広がるチャイナタウン、悲劇を乗り越えたその街の歴史、なぜこの場所にチャイナタウンがあるのかなど、詳しく学びます。

チャイナタウンのあるホノルル・ダウンタウン。ここは見事に違う様々な顔を持つ街で、散策するのも楽しいエリアです。ダウンタウンを構成しているのは、イオラニ宮殿周辺の歴史ある建物が並ぶ地区、その西側の高層ビルが建ち並ぶオフィス街、そして、さらにその西側にあるチャイナタウン、港のエリアです。

東西にヌウアヌ・アベニューからヌウアヌ川、南北にアラモアナ・ブルバードからノースククイ・ストリートに囲まれたチャイナタウンは、コンパクトなエリアながら、多様な文化が生きる活気に満ちた場所。街自体が国家歴史登録材となっており、歴史を感じさせる建物が残ります。また、道の名前にも中国語表記がなされおり、異国情緒に満ちた空間が広がります。それでは、なぜこの場所にチャイナタウンが生まれたのか、そして、どんな人々が暮らし、どんな歴史があったのかを詳しく見てみましょう。



初めて中国人がハワイを訪れたのは…

ハワイがイギリス人のクック船長一行によって「発見」されたのは1778年のこと。それから程なくして、1785年に毛皮の貿易船が初めてハワイに立ち寄ったのを皮切りに、カナダ、アメリカと中国との間を結ぶ数々の外国船が、ハワイを中継地とするようになります。記録として残っているものとして、貿易船に乗っていた中国人が初めてハワイに上陸したのは1789年のこと。その後1794年までの間に、複数の中国人がハワイに居住するようになりました。後に、ハワイは毛皮貿易の中継地としてだけでなく、カメハメハ大王主導でサンダルウッド(白檀)の中国への輸出にも乗り出し、ハワイを出入りする貿易船の数も増えていきました。


ホノルル港


貿易を通して世界とのつながりが広く、そして強まっていくハワイにおいて、港は重要な役割を果たしていくことになります。現在のホノルル・ダウンタウンに隣接するホノルル港近辺は、かつて小さな漁村でした。1793年2月、イギリスの貿易船バターワース号(Butterworth)がハワイに到着し、ハワイの島々を巡った後の1794年12月、外国船として初めて、現在のホノルル港のある入江に入りました。この入り江は、ワイキキの遠浅の海とは違って水深が深く、大型の外国船が着岸できるようなつくりになっていました。そのため、サンダルウッドの輸出に使われた、外国の大きく底の深い貿易船は、ホノルル港を拠点に行き来するようになり、ワイキキに居住していたカメハメハ大王も、このサンダルウッド貿易に注力するために、ホノルル港近くに居を移すことまでしています。カメハメハ大王亡き後は、サンダルウッド貿易はカメハメハ2世と貿易業者との間に摩擦が生じたことを発端に衰退し、1830年には完全に終了してしまいます。

しかし、それまでに太平洋での捕鯨*が盛んになり、主にアメリカから多くの
捕鯨船がマウイ島のラハイナ港、オアフ島のホノルル港に集まりました。最盛期の1846年には、736隻の捕鯨船がハワイの港に寄港していたといいます。

寄港した船には、さらにその先の捕鯨地に向かう、あるいは帰国するための物資の補給が行われます。さらに、船員を休ませるためのレストランやバーなどへの需要も高まります。そのような中で、ホノルル港の目と鼻の先、現在のチャイナタウンとその周辺に、ビジネスの拠点が形成されていったのです。


*鯨の脂は、暖房やランプ、工場の機械の動力として、また、鯨の上顎のひげは、女性が身に着けるコルセットやスカートの裾、傘用に加工されていました。


(Hawaii State Archivesより)


サトウキビ産業の拡大と中国移民の始まり


ハワイは、サンダルウッドの輸出、捕鯨船の寄港地としての役割を果たすことで国の経済を支えていましたが、それぞれ、サンダルウッド乱獲後の急激な減少、石油などの化石燃料の発見による鯨油需要の減退により、新たな経済の柱を探すことになりました。それが、その後のハワイを大きく飛躍させることになる、サトウキビ産業です。

サトウキビ畑での労働力として、様々な国からの移民がハワイに渡ることになりますが、その中で最初に契約労働者として移住したのが、中国人移民でした。1852年のことでした。


(Hawaii State Archivesより)

労働者としての契約は5年間で、その期間が終わった中国人移民のほとんどが契約更新をせず、自ら店を始めたり、ビジネスを起こすようになります。彼らが集まったのが、港に近い現在のチャイナタウンの地でした。

ハワイへの中国人移民の数は、アメリカでの1882年の移民法「中国人排斥法(Chinese Exclusion Act)」の施行で、中国人の移住が禁止されるまでの間に5000人を超えていました。契約が終了したサトウキビ畑の労働者を、先に契約を終了してビジネスを始めていた中国人が順次、チャイナタウンとなる地で受け入れ、仕事を提供するなどすることで、この地の中国人人口は増え、1870年頃に「チャイナタウン」と呼ばれるようになり、商業地として発展していきました。

(Hawaii State Archivesより)

チャイナタウンを襲った2度の悲劇



賑やかさが増すチャイナタウンでしたが、1886年4月18日、一つ目の悲劇が襲います。スミス・ストリートとホテル・ストリートの角にあったレストランで火災が発生、その火は延焼を繰り返しながら3日間燃え続け、8区画を焼き尽くしました。この火事で、7000人の中国人と350人のハワイアンが家を失いました。木造の建物が延焼を引き起こしたとされ、再建の際には厳しい防火対策を施すような規則も作られましたが、再建を急ぐあまりにそれも順守されず、またも木造の密集した街となり、そこに多くの人々が以前のように暮らすこととなりました。


(Hawaii State Archivesより)



(Hawaii State Archivesより)

大火事を乗り越えたチャイナタウンでしたが、中国人排斥法の施行により、中国人の移住が禁止されたことで、日本人が移住するようになります。サトウキビ畑での労働契約が終わると、中国人と同様に、日本人もチャイナタウンに多く集まってビジネスを始めるなど、日本人も多く居住する地区となっていきました。


(Hawaii State Archivesより)

チャイナタウンも、ようやく普段の生活を取り戻したかと思われた途端に、次の悲劇が襲います。腺ペストの流行です。腺ペストは、ネズミ等の小動物が保有する菌をノミが運び、ノミを介して人間に感染する、あるいは、菌を保有する小動物の死骸や排泄物からも感染する病気で、菌がリンパに入り込むことで高熱を出し、リンパ節炎、敗血症などを引き起こし、治療が施されなければ、致死率が非常に高い病気です。1899年12月、この病気の感染者がチャイナタウンの一角で発見され、13名が死亡した段階でその一帯に住む住民は、自宅での隔離が命じられました。


(Hawaii State Archivesより)

感染の拡大を防ぐために、感染者の家を破壊する命令も下され、1900年1月1日より、住人を避難させた上で、区画を分けて連日、家々に火が放たれていきました。消防署による計画的な火災でしたが、1月21日、北東から吹いていた風の方向が東向きに変わり、さらに突風のような強い風となったために炎をコントロールできなくなり、カウマカピリ教会の木造の尖塔に火が点き、さらにその火は街中に広がっていきました。


(Hawaii State Archivesより)

17日間燃え続けた火事で、現在のチャイナタウンのほぼ全てにあたる土地が焼き尽くされ、幸い死者は出ませんでしたが、4000人が家を失いました。


(Hawaii State Archivesより。黒く塗られた所が火災のあった場所。チャイナタウンのほとんどのエリアが燃えたことが分かる。)


(Hawaii State Archivesより)


再び街を立て直すことになったチャイナタウンですが、2度の火災の経験から、建物は木造ではなく、レンガやコンクリートなど、火に強い建物となって生まれ変わりました。



現在のチャイナタウン



多くの中国人移民によって造られたチャイナタウンらしく、中華料理店、中国の食材や輸入品を売るお店が建ち並ぶ中、現在では、ベトナムや韓国、エチオピアや日本の料理を楽しめるお店や、アートギャラリー、花屋、市場も多くあり、とても活気に満ちた街になっています。よりインターナショナルに、より個性が光る街へと進化してきたチャイナタウンは、それでもこの街を造った人々の功績と、重なる悲劇を生き抜いた人々への敬意を失うことなく、チャイナタウンという名で呼ばれ続けていくのでしょう。
 
  • ロバーツさゆり
    Sayuri Roberts
    担当講師

    東京生まれ。筑波大学・比較文化学類にて北米の歴史・文化を学び、英会話スクールの講師等を経て、結婚を機にハワイへ移住。Native Hawaiian Hospitality Association主催の歴史ツアー「Queen's Tour(当時)」に参加し、ツアーガイドの方に、日本語の通訳を頼まれたことから、2004年、ガイドとして登録、研修の上、日本語の歴史ツアーを始める。2006年、「Queen's Tour」の終了を機に、ツアーの継続について主催者の了承を得て、Hawaii Historic Tour LLCを発足、「ワイキキ歴史街道日本語ツアー(当時)」(その後「ワイキキ歴史街道ツアー」に改称)を開始。2007年、「ダウンタウン歴史街道ツアー」もスタート。テレビ、ラジオ、雑誌等、メディア出演多数。 『お母さんが教える子供の英語』(はまの出版)著者。

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