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所用時間5min
2020.09.15

篠遠喜彦博士

ここがポイント

ポリネシアの歴史探究に生涯をかけた人類学・考古学博士

1954年、横浜からサンフランシスコの大学への留学を目指し、プレジデント・ウィルソン号に乗り渡米した篠遠喜彦博士。小さい頃から中国の考古学に興味を持ち、戦争に翻弄されながらもやっとカリフォルニア大学バークレー校でアメリカインディアンの旧石器文化を学ぶ留学の切符を手にしたのにも関わらず、ホノルル港に到着する時に、当時ハワイ島のサウスポイントで発掘調査をしていたビショップ博物館のケネス・P・エモリー博士に呼ばれ、そのまま発掘調査を続けることになりました。その後サンフランシスコに行くことはなく、ハワイ大学で人類学科を卒業し、1961年には北海道大学で理学博士の学位を取得。ビショップ博物館勤務62年、ポリネシア諸島の革新的な歴史解明に一生を捧げた博士です。


篠遠博士の晩年、ビショップ博物館の博士の部屋にて

篠遠博士が日本で研究されていた専門は縄文土器でした。文字が存在する文化では土器から歴史を探るのが考古学とされていますが、ポリネシアは文字も土器もない文化であり、ハワイアンの起源を探るためにハワイ島のサウスポイントでケネス・P・エモリー博士は発掘調査をしていました。篠遠博士の興味のある土器は発見できなかった代わり、日本式の発掘の方法で、3500本もの釣針を発見しました。博士の発掘の方法がエモリー博士の強い要望でハワイに残ることを決断。ハワイ大学にて学位を取りました。



博士が発掘した釣針の一部

その後、ハワイだけには止まらず、イースター島、ニュージーランドを含むポリネシアの各地にも赴きました。
タヒチとは中部南太平洋フランス領ポリネシアに属するソサエティ諸島中、最大の島です。太平洋の中で、ハワイ、ニュージーランド、イースター島を結んだ一辺が8000kmほどになる巨大な三角形の内側がポリネシアと呼ばれます。ソサエティ諸島は、その中央部にあり、オーストラル(Austral)諸島、トゥアモトゥ(Tuamotu)諸島、ガンビエ(Gambier)諸島、マルケサス(Marquesas)諸島もあります。
この釣針こそが篠遠博士が生涯ポリネシアの民族移動の学説を唱えることになる大切な発掘でした。博士は釣針の形から作られた時代の前後を見極め、釣針による文化編年の方法論を確立し、古代ポリネシア人の航海の経路を研究しました。

1960年代に篠遠博士はエモリー博士と連盟で「ポリネシア移動論仮説」を発表。その仮説は南太平洋のハワイ、ニュージーランド、イースター島を結んだ巨大な三角形の内側がポリネシアというもの。ポリネシアの西、サモア、トンガから移動を始めた人はまずマルケサス諸島に到着(紀元前300年頃)。イースター島は紀元400年、ハワイは紀元500年、タヒチは紀元600年、タヒチ、クック諸島を経て紀元800年に最初の移動が起こったとしています。現在「オーソドックス・シナリオ」と呼ばれ、遺物を基本にするという考古学の正統的(オーソドックス)な手法に基づくシナリオを作り出しました。


1960年初めてのタヒチでケネス・P・エモリー博士と篠遠博士


オーソオーソドックス・シナリオの三角形の図

1978年、ソサエティ諸島の中心に位置するフアヒネ島の水没遺跡調査では、釣針の調査中に古代木製のカヌーの一部分を見つけました。発掘された部分から想像すると帆柱は2m、それに厚い側板、舵取り用のカイが見つかり、航海用のカヌーだとわかったそうです。博士の発掘調査はハワイアンのルーツを証明する貴重なものとなりました。その後タヒチからハワイ諸島に移住した人達も多かったことも証明されました。
タヒチでは考古学をやっているのは外国人だけでしたので、博士はタヒチの人達に文化の大切さや保存の仕方などを細かく説明し指導し、現在タヒチの歴史が明らかになっているのは、博士のおかげだということで、2000年にはフランス領ポリネシア政府からナイト(騎士)の称号を授与されています。また、「タオテ・シノト」という曲もあり1987年にボビー・ボルコムによるCDも発売されています。博士が亡くなってから2年後にフアヒネ島での追悼式も行われ記念碑が建てられました。フアヒネ島の人たちとの深い関わり合いを知ることができます。


フアヒネ島で発掘した古代木製のカヌーのマスト

篠遠博士のもう一つ大きな功績は、釣針や他の遺物発掘とともに、遺跡の復元を長い間かけて調査したことです。遺跡の復元はマラエを中心に行われました。マラエとはソサエティ諸島、ツアモツ諸島、マルケサス諸島にある宗教遺跡であり、立石遺跡から壮大な石積みの遺跡までを含み宗教的儀式を行う聖域として使われていました。復元には重機などを使わずに島民を雇い、人力にて昔と近いものにしました。初めは地元に人には煙たがられたそうですが、粘り強い説得により、島の人たちも自ら手伝うようになったと言います。昔のポリネシアの人々は文字がなかったため、民族間で歴史や文化を口頭で伝承していました。このように消えてゆく歴史や文化を異国から来た民族、人類学者により伝承され、いかにその土地の人間や社会にとって大切なものかを伝えた一人となりました。
博士の持論は、発掘調査をする際に、その辺りのすべての発掘をするのではなく、ある程度まで発掘したら、あとは後世の人たちの為に残します。後世の研究や進んだテクノロジーで、また別の何かが発見される可能性があるということだそうで、さすが奥が深い話をされていました。

マラエ

博士はホクレア号の複製にも顧問として貢献されています。
1995年に勲五等双光旭日章、1996年にはポリネシア古代文化研究による吉川英治文化賞、2000年にはタヒチ・ヌイ勲章も受賞されています。「サー・ヨシヒコ・シノトー」と名付けられたハイビスカスもあり、ハワイを含むポリネシアの歴史、文化の発展にはなくてはならない存在の方であり、その功績は今の人たちに伝えられています。
2017年10月4日に93歳でホノルルにて永眠されました。


サー・ヨシヒコ・シノトウのハイビスカス


偉大な学者博士が著者と気さくに20年もお付き合いいただきました。
補足事項

参考文献
楽園考古学 篠遠喜彦+荒俣宏著  平凡社
Curve of the Hook, by Yosihiko Sinoto with Hiroshi Aramata  University of Hawaiia Press
Huahine  Island of the Lost Canoe, by Rick Carroll- based on research by Yoshihiko Sinoto                   
Bishop Museum Press

  • 藤原 小百合 アン
    Anne Sayuri Fujiwara
    担当講師

    【インタビュー動画あり】
    アーミッシュキルトの盛んなアメリカ・オハイオ州の高校に留学中にアメリカン・パッチワークを習得。メリーランド大学学士号取得。その後ハワイに移住し、マウイ島のハナ・マウイ・ホテルで出会ったハワイアンキルトのベッドカバーに一目惚れをし、ハワイアンキルトを始める。2001年9月11日、ニューヨークで起きた同時多発テロ事件の犠牲者とその家族への追悼キルト、『千羽鶴 フレンドシップキルト』を全国のキルターとともに完成させ、2009年9月、9.11メモリアルに寄贈。2011年7月、ハワイで毎年開催される「キルトハワイ」において、オリジナルデザインの「マノアの森」キルトがグランプリ受賞。ハワイ、日本でのレッスンなど、伝統的なハワイアンキルトを広げるため、日々奔走中。15年以上、パシフィックリゾートの「キルトパラダイス」(http://www.holoholo.world/kawaraban/category/quilt/)を連載中。 日本でハワイアンキルト本を数冊出版。2006年よりホノルルフェスティバルにおける伝統的ハワイアンキルト展を毎年開催。2013年よりイオラニ宮殿の日本語ドーセントのボランティアを始め、現在ハワイ在住31年目。

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