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2021.02.26

旧ホノルル国際空港の始まりと歴史

ここがポイント

ハワイを訪れる多くの方が利用する旧ホノルル国際空港。空港の始まりと歴史、この空港が持つ興味深い特徴の数々について詳しく学びます。


「空の玄関口」と称される空港。ハワイには、カウアイ島、オアフ島、ラナイ島、モロカイ島、マウイ島、ハワイ島それぞれに空港がありますが、その中でも最も規模が大きく、利用客数が最大の空港は、オアフ島ホノルル市にある「ダニエル・K・イノウエ国際空港」です。日本からハワイへ到着する便の多くは、この空港に着陸することになります。かつては「ホノルル国際空港」と呼ばれていた空港ですが、ハワイにとってはメインの玄関口となるこの空港の始まりと、その後の歴史について詳しく見てみましょう。


ジョン・ロジャース・フィールド(John Rodgers Field)

ハワイにおける本格的な空港建設の始まりは、1927年にまで遡ります。当時は準州だったハワイは1927年、ハワイで最初の空港を建設し、海軍司令官、ジョン・ロジャース氏の名をもとに、「ジョン・ロジャース・フィールド」と名付けました。


(1928年のジョン・ロジャース・フィールドの様子。)


それでは、「ジョン・ロジャース氏」とは、どのような人物だったのでしょうか。


ジョン・ロジャース氏とは

海軍司令官ジョン・ロジャース氏は、クルーと共に、1925年8月31日にサンフランシスコを出発し、PN-9型機でハワイまでの太平洋横断飛行を初めて成功させた人物です。9月10日、ハワイ到着前に燃料が底を尽いてしまい、オアフ島からおよそ590㎞の場所に着水しました。3日間、海の上で救助を待ちましたが、クルー達自ら翼を使って帆を作り、カウアイ島に近づくことに成功。潜水艦に発見され、無事に岸にたどり着きました。


(ジョン・ロジャース氏の乗ったPN-9型機)


(イオラニ宮殿で行われた歓迎式典にて。左はファリントン準州知事。)

ジョン・ロジャース氏の太平洋横断飛行の成功の後、航空機による人・物の輸送が活発化することが予想される中、ハワイ準州政府は、首都ホノルルへのアクセスの良い場所で、空港の建設を計画しました。資金の調達、土地の確保が行われ、現在の「ダニエル・K・イノウエ国際空港」のある場所に、空港建設工事が始まりました。

1927年に空港は完成、ジョン・ロジャース氏の名を取り、「ジョン・ロジャース・フィールド」との名で、3月27日に空港のオープンの日を迎えました。

ジョン・ロジャース・フィールドは1930年代中に機能を拡大させ、水面上で発着できる水上機用の滑走路も造られました。1934年にはハワイの島嶼間を結ぶインターアイランド・エアウェイズが就航。航空学校も設置され、プライベート機の発着も行われていました。


(1934年。インターアイランド・エアウェイズの飛行機に乗り込む乗客。)


(1934年。最初の「航空便」となる郵便物をパイロットに手渡すポインデクスター準州知事。)


(1935年。パイロット養成学校の授業の様子。)


滑走路を共有するヒッカム・フィールドの建設

1903年のライト兄弟による飛行機の発明と飛行の成功は、アメリカ軍の目を引きつけ、1909年にはアメリカ軍が飛行機を手に入れていました。アメリカ陸軍がハワイにおいても、1917年にフォード・アイランドに飛行場を建設しており、さらなる新たな飛行場となる場所として探し出したのが、ジョン・ロジャース・フィールドの西に隣接する土地、海軍基地のあるパールハーバーの入り口となる、水路に面する場所でした。新たな飛行場は1935年に完成し、ホーレス・ミーク・ヒッカム中佐の名を取り、ヒッカム・エア・フィールドと名付けられました。





1941年12月7日、日本軍によるパールハーバー攻撃があった際には、ヒッカム・エア・フィールドも日本軍による攻撃の対象となっており、駐機していたアメリカ軍の軍用機の半数が破壊、あるいは大きなダメージを受けています。

1948年、名称が変更となり、ヒッカム空軍基地(Hickam Air Force Base)となりました。この空軍基地は、現在もダニエル・K・イノウエ国際空港と隣接しており、滑走路を共有して使用しています。


パールハーバー攻撃の後

パールハーバー攻撃があって以降、ジョン・ロジャース・フィールドは軍の統制下に入りました。陸軍と海軍により拡張工事が行われ、4本の滑走路、ターミナル・ビルディング、コントロールタワーなどが建設され、「海軍航空基地」として使用されました。(空軍はまだ存在せず、第二次世界大戦後の1947年に設立されています。)1946年の時点で、ジョン・ロジャース・フィールドはアメリカ最大級の空港となっていました。

1946年10月1日、軍による統制が解かれ、ジョン・ロジャース・フィールドはハワイ準州のもとに返還され、1947年5月2日、「ホノルル空港」と名称が変更されました。これは、アメリカ本土での、「空港のある都市の名前を空港名にする」という動きに呼応したものでした。

2017年に「ホノルル国際空港」から「ダニエル・K・イノウエ国際空港」と名称が変更されたのも、ニューヨークの「ジョン・F・ケネディ国際空港」や、パリの「シャルル・ド・ゴール空港」など、世界で「偉人の名を空港名にする」という動きに呼応したもので、時代が変わり、人々の嗜好や考えも変わったことが、空港の名称から伺えます。



「ホノルル空港」となってから

「ホノルル空港」となった1947年は、アメリカ本土とハワイの間で、63,055人の乗客が海を渡りました。戦前となる1941年には、船での輸送で26,000人となっているため、航空機の登場で、輸送能力が大きく向上していることが分かります。

1948年に入ると、ホノルル発着便を扱う、または、ホノルルを経由する航空会社も増え、ホノルルとワシントン州シアトル、オレゴン州ポートランド間の直行便、ホノルル空港経由のサンフランシスコ―マニラ線も開通しました。さらに翌年には、オーストラリアのシドニー、カナダのビクトリアを結ぶ路線も登場。パン・アメリカン航空が、史上初めて、ホノルルと東京の間を、給油なしで11時間24分でつなぐことに成功するなど、アメリカ国内だけでなく、外国との間を結ぶ国際線の路線が増加していきました。


(1948年のホノルル空港の様子。)



世界一長い滑走路を持つ「ホノルル国際空港」

1951年4月27日、当時のステインバック準州知事の認可を得て、「ホノルル空港」は「ホノルル国際空港」と5月7日から名称が変わりました。

旅客機、貨物機の離着陸に加え、前年の1950年から続く朝鮮戦争により、アメリカ本土から韓国に向かう、または韓国から帰還する兵士、避難する軍人の家族がホノルル空港に一度立ち寄り、アメリカ本土へと向かうことで軍用機の離着陸が加わり、ホノルル国際空港は、アメリカ国内の空港で3位の発着便数となるほどの忙しさとなりました。

隣接するヒッカム空軍基地の土地も利用して、滑走路の延長工事も行われ、1953年4月、ホノルル国際空港の滑走路(13,097フィート、3991m)は、世界一長いものと認定されるに至りました。



(1955年のホノルル国際空港の様子。)



(1955年のホノルル国際空港のターミナル部分。)


(1953年のユナイテッド航空のプロペラ機。)


プロペラ機からジェット機の時代へ

1955年12月13日、イギリス、デハビランド社で開発されたジェット機「コメット3」が世界一周飛行の途中でホノルル国際空港に立ち寄り、2日間駐機しました。ハワイの人々が初めて目にしたジェット機です。


(1954年、コメット3の姿。Wikimediaより。)


プロペラ機からジェット機の時代の幕開けは、世界的な観光地としてのハワイの名をより広め、ホノルル国際空港利用客数を大きく増加させることになります。ハワイに就航させている多くの航空会社は、1959年中頃までにはジェット機を使用すると発表しました。ジェット機を使用するにあたって、空港側でも、使用してきた機器をジェット機仕様に変えたり、空港の拡張や改良が求められることになり、1959年後半から1960年前半は、様々な工事が行われました。

忙しさを増していくホノルル国際空港では、新たなターミナルの建設も始まりました。国際線出発ロビー、国際線到着ロビー、ハワイの島嶼間を結ぶインターアイランド便発着用ロビーに加え、4200台分のパーキング、倉庫、修理施設、ヘリポートも設置され、「ジョン・ロジャース・ターミナル」として完成、1962年8月22日に新ターミナルがオープンとなりました。1962年10月15日、新ターミナルから旅立った最初の人々は、日本に向かう搭乗客でした。


ハワイが準州から州へ


1959年、ハワイ準州がアメリカ50番目の州となったことは、アメリカ国内でハワイの知名度を大きく上げ、ジェット機の導入も手伝って、ハワイへの渡航者数も大幅に増えていきました。ホノルル国際空港の利用者は、1965年の時点で年300万人に迫り、前年比16.7%の伸びを見せました。

ジェット機はさらに大型化し、1969年にはジャンボジェット機が登場。ボーイング747型機が1970年3月1日にホノルル国際空港に到着しました。747型機は、397名から490名が搭乗でき、それまでハワイで使われていた機体で搭乗できる155名から251名を大幅に超える人数の輸送が可能となりました。1971年12月にはおよそ23,000人、1972年4月には8000人と、前例のない人数の日本人観光客も到着しています。

ジャンボジェット機に対応できるよう、新たなターミナルの建設や拡張工事が行われる中、世界的にも初となる滑走路の建設計画が持ち上がりました。


世界初となる「リーフ・ランウェイ」の建設

1970年の拡張工事計画に盛り込まれたのが、空港周辺への騒音を緩和するために、世界初となる完全に岸から独立した形の滑走路、3800mにおよぶ「リーフ・ランウェイ」の建設でした。1973年5月に工事が始まりましたが、リーフ・ランウェイを建設する場所の海の生態系を壊すと主張する環境団体により訴訟が起こされ、一時工事が中断しましたが、裁判所は工事の再開を許可し、1977年10月に完成しました。


(リーフランウェイへと進む機体の中からの写真。)

完成したリーフ・ランウェイは、現在も多くの飛行機が使用していますが、スペースシャトルを含め、航空機の緊急着陸用の滑走路にも指定されています。


世界有数の発着回数を誇る空港へ

ジャンボジェット機の導入と、ハワイへの到着客の増加などにより、常に拡張・改良工事が行われてきたホノルル国際空港は、1984年には、世界で17番目の大きさとなり、343,818機が発着する規模となりました。1980年代に入ると、団体ツアーの増加も加わり、1989年のホノルル国際空港利用者数はおよそ2230万人。1965年に300万人程でしたから、その増加に対応できるだけ、空港自体も大きく成長してきたことが分かります。


いくつもの災難が襲った1990年代以降のホノルル国際空港

順調に利用客数が増え続けていた80年代までのホノルル国際空港ですが、同時に、路線の拡大を進めてきていた航空会社の撤退や倒産が相次いでいました。撤退を埋めるように、新たな航空会社の参入や、既存の航空会社が路線を増やすなどすることで、利用客数自体は微増を維持していましたが、1991年、湾岸戦争の勃発と、アメリカ本土の経済状況の悪化で、初めて利用客数が減少に転じました。世界各地の空港で、湾岸戦争の影響が見られる中、アジアや太平洋諸地域からのハワイへの旅行者数は増加し、減少幅は前年比3.3%に留まりました。

湾岸戦争による影響は、ホノルル国際空港の場合は低く抑えることができましたが、2001年9月11日に起きた、ニューヨークでの航空機を使った同時多発テロ事件では、アメリカ国内の旅客機の発着が3日間全て停止とされ、空港での旅客への検査が厳しいものとなりました。


テロの起こった2001年のホノルル国際空港利用者数は、2000万人を割り込み1975万人にまで落ち込み、さらに、2003年にはSARS(重症急性呼吸器症候群)の発生により、アジアからの旅客数も大幅に減少するなど、空港、航空業界にとって多難な時となりました。


復活に向けての努力

こういったことがありながらも、各航空会社が燃費のよい機体を使ったり、州政府が空港着陸料を半年間免除するなど、様々な努力が重ねられ、便数の増加や、新たな路線の就航が続き、
2000万人を割り込んでいた空港利用者数も2010万人まで復活、2019年には、2100万人を超える人数を数えています。そのような中、2017年には「ホノルル国際空港」は、長きに渡り、ハワイ州選出のアメリカ下院・上院議員を務めたダニエル・K・イノウエ氏にちなみ、「ダニエル・K・イノウエ国際空港(Daniel K. Inouye International Airport)」と名称が変わりました。

ダニエル・K・イノウエ上院議員について詳しくは、こちらをご覧ください。



2019年に発生した新型コロナウイルスの影響で、多くの国々で観光客の受け入れを中止したり、渡航後に厳しい隔離条件を設けることで、人々の往来を抑える政策がとられました。ダニエル・K・イノウエ国際空港においても、航空機の発着数が激減し、これまでの賑やかな空港の様子は一変しました。感染症予防の徹底した対策が取られた、新たな空港の形が体現され、再び多くの人々が行き交う賑やかな空港へと蘇る日が、一日も早く訪れることが期待されます。


(白黒写真は1点を除き、Hawaii State Archivesより。その他写真はHawaii Historic Tour LLC所有。)
  • ロバーツさゆり
    Sayuri Roberts
    担当講師

    東京生まれ。筑波大学・比較文化学類にて北米の歴史・文化を学び、英会話スクールの講師等を経て、結婚を機にハワイへ移住。Native Hawaiian Hospitality Association主催の歴史ツアー「Queen's Tour(当時)」に参加し、ツアーガイドの方に、日本語の通訳を頼まれたことから、2004年、ガイドとして登録、研修の上、日本語の歴史ツアーを始める。2006年、「Queen's Tour」の終了を機に、ツアーの継続について主催者の了承を得て、Hawaii Historic Tour LLCを発足、「ワイキキ歴史街道日本語ツアー(当時)」(その後「ワイキキ歴史街道ツアー」に改称)を開始。2007年、「ダウンタウン歴史街道ツアー」もスタート。テレビ、ラジオ、雑誌等、メディア出演多数。 『お母さんが教える子供の英語』(はまの出版)著者。

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