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2015.06.03

ロバート・ウォーカー・アーウィン

日布官約移民の父と言われ、日本とハワイの架け橋の第一人者

  • ロバート・アーウィンの移民制度確立の功績をじっくり把握。
     
  • ハワイと日本の強い結びつきを知る。

ハワイでは、現在も日系移民の子孫達が、ハワイの社会を支えています。その日系移民の第一号となった日米官約移民の組織を作り、移民の父と呼ばれたのがロバート・ウォーカー・アーウィンです。ベンジャミン・フランクリンの直系五代目の子孫として、アメリカ人ながら、デンマークのコペンハーゲンで生まれ、1866年に22才で太平洋郵便汽船会社より日本に赴任しました。そして人生の大半を日本で過ごすことになります。

ロバート・ウォーカー・アーウィン

アーウィンが日本に赴任してから1ヶ月後に、15才の明治天皇が即位したという時代背景でした。太平洋郵便汽船会社での新航路を開拓した後は、ウォルシ・ホール商会に就職します。横浜開港早々一番乗りをした、外国一流商社の一つでした。また、アーウィンは後の総理大臣、伊藤博文、外務、内務大臣の井上馨、後の初代三井物産の社長、益田孝、後の第一国立銀行の頭取、渋沢栄一ととも、西洋文明を取り入れた新しい日本の国造りに貢献しました。その会社では1年後に長崎支店長に就任することになります。

 

横浜と長崎を往復している間、24才のアーウィンは横浜で 浅草橋場町の裕福な海産物問屋の養女、16才のいき-未来の夫人-と運命的な出会いをします。アーウィンは何度にも渡り、いきの養父のもとを訪ね、結婚の承諾を得ようとしますが、当時は両家とも大反対でした。ですが2年間、通い詰め、ようやく養父と本人の了承を得ました。しかし日本政府は二人の正式な国際結婚を認めませんでした。それから正式な結婚の許可まで日本側では6年間、アメリカ側では12年間もかかりました。晴れて1882年の9月、アーウィン38才、いき31才にして、日米結婚のパイオニアとなったのです。今でもこのときの書類は関東大震災にも第二次世界大戦にも焼失せず、浜松町の東京都公文書開館に大切に保管されています。アーウィンといきは一生涯、お互いの言葉を片言しか話さなかったといいます。こののち、アーウィンは、待合政治最盛期の明治時代に、政治家、実業家として日本における存在が大きくなっていきました。

宮中の祝賀会にハワイ公使として出席したアーウィンといき

32才のアーウィンは三井物産創立時の顧問となり、外国貿易の部分はすべて取り仕切っていました。ロンドンに2年赴任し、三井物産の海外事情の値付けをしました。結果、岩崎弥太郎率いる三菱汽船会社とライバル会社となりましたが、やがて、岩崎の死後、両者が合併し1885年には日本郵船会社が発足しました。このときにアーウィンはすでに大富豪になっていました。

 

37才になったとき、ハワイ王国のカラカウア王が訪日しました。王は滅亡寸前のハワイの砂糖産業を再興するために、日本からの労働力、すなわち移民の協力を得るため、日本を訪問しました。それより1年前に、米国総領事兼ハワイ国総領事だった友達が帰国したことより、アーウィンはその職を臨時で引き受けていました。カラカウア王日本滞在13日の間に、ハワイ国全県公使兼総領事に任命されました。ハワイ王国が崩壊し、1898年にハワイがアメリカに合併されるまでの17年間、日本人のハワイ移民に全力で貢献しました。

 

1885年より1894年の9年間の間、26回にわたり、約3万人の男女や子供がハワイに渡りました。アーウィンの努力で1886年日布渡船条約がハワイと日本の間に調印されました。それが終わってからも、私約移民、自由移民へと続き、ハワイだけではなく、アメリカ本土への移民と続きました。日布官約移民ほど、良く選択され組織化された移民は、移民史上その例をみないほど確立されたものでした。移民に与えられたものは、3年間で旅費、食費、燃料、家賃、医療が無料。1ヶ月の賃銀は15ドル。その当時1ヶ月3円の時代で1円はo.85セントばかりのものでした。アーウィンも当時1才と2ヶ月だった長女と夫人を連れ、一回目の官約移民渡航に乗船しました。ハワイの糖業は日本人が渡布してから7年後には産業数量は3倍まで増えています。1893年ハワイ王国が崩壊後は、ハワイ政府に通い、外交事務やハワイ移民のために事務処理などをしています。アーウィン54才の出来事でした。その後は台湾で製造製糖会社を設立し5年間顧問をしました。

アーウィンといきの間には結婚後まもなく女の子が生まれましたが、すぐに死亡。その後12年間子宝には恵まれませんでしたが、待望の女の子を先頭に、10年間で2男4女の子供に恵まれました。教育は熱心で、英国から家庭教師を呼び寄せ教育。小学校を卒業する頃には、アメリカの一流教育を受けさせるため、一人づつアメリカに留学させました。子供達は一流の大学まで卒業しましたが、6人中5人は日本に帰って生活をしました。子供達のためと、貴族趣味が講じて、三田綱町に一万坪の本宅、十数万坪の別宅を玉川に、そして温泉の出る伊香保に三万坪の夏の別荘を持っていました。その当時使用人50人を抱えた大きな家族となっていました。

 

伊香保の別荘は、年月を経て、1985年に日布官約移民100周年を記念し、ハワイ独立国当時の交流を示す外交史料として、伊香保町指定史跡文化財に指定されています。

 

アーウィンはその後、本国アメリカに根を下ろす事もなく、81才、東京で亡くなりました。本人の意思により、日本の地において妻や子供達と永眠しています。亡くなった時には、大正天皇より勲一等旭日大授章が贈られました。

アーウィンといき、そして6人の子供との写真

現在でも、イオラニ宮殿、2階の音楽の間には、1885年、アーウィンといきからカラカウア王に贈られた「ついたて」が展示されています。当時も同じ場所に飾られていたと記録に残っています。このついたては芝山細工であり、蝶貝、アワビ貝、珊瑚、象牙、鼈甲等を用いて漆器や象牙面に花鳥や人物等の文様を描く当時、日本で作られた貴重なアートです。王国崩壊後は数人の手に渡ったと言われていますが、最後はレインボー・ドライブインのいふくせいじゅさんが所持し、イオラニ宮殿復興時に寄付、当時飾ってあった音楽室に戻されたということです。

 

カラカウア王から多大な信頼を受け、ハワイ国全県公使兼総領事となったアーウィン。このついたては、今でもアーウィンと日本、ハワイ王国の繋がりを証明する逸品となっています。

イオラニ宮殿2階音楽の間に飾られている、アーウィンといきからカラカウア王へ贈られたついたて:Courtesy photo by Iolani Palace

参考資料

フランクリンの果実 アーウィン・ユキコ。文藝春秋社

イオラニ宮殿 — ドーセント・トレーニング・ブック

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  • 藤原 小百合 アン
    Anne Sayuri Fujiwara
    担当講師

    【インタビュー動画あり】
    アーミッシュキルトの盛んなアメリカ・オハイオ州の高校に留学中にアメリカン・パッチワークを習得。メリーランド大学学士号取得。その後ハワイに移住し、マウイ島のハナ・マウイ・ホテルで出会ったハワイアンキルトのベッドカバーに一目惚れをし、ハワイアンキルトを始める。2001年9月11日、ニューヨークで起きた同時多発テロ事件の犠牲者とその家族への追悼キルト、『千羽鶴 フレンドシップキルト』を全国のキルターとともに完成させ、2009年9月、9.11メモリアルに寄贈。2011年7月、ハワイで毎年開催される「キルトハワイ」において、オリジナルデザインの「マノアの森」キルトがグランプリ受賞。ハワイ、日本でのレッスンなど、伝統的なハワイアンキルトを広げるため、日々奔走中。15年以上、パシフィックリゾートの「キルトパラダイス」(http://www.holoholo.world/kawaraban/category/quilt/)を連載中。 日本でハワイアンキルト本を数冊出版。2006年よりホノルルフェスティバルにおける伝統的ハワイアンキルト展を毎年開催。2013年よりイオラニ宮殿の日本語ドーセントのボランティアを始め、現在ハワイ在住31年目。

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