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2014.04.09

リリウオカラニ

カラカウア王のサンフランシスコでの客死を受け、妹が八代目の女王に。

  • 兄であるカラカウアの亡骸がホノルルに戻った日に直ちに即位を強いられたリリウオカラニは、その二年後に、ネイティヴハワイアンの権利を取り戻すべく憲法改正を試みます。しかしそれは反対派の大臣に阻まれ、且つ退位を迫られ、一世紀弱続いたハワイ王国は終焉を迎えました。
     
  • 1893年2月、リリウオカラニ女王の退位による混乱の中、日本国は自国からの移民を保護する目的で巡洋艦「浪速」をホノルルに派遣しています。当時の艦長は東郷平八郎でした。


兄であるカラカウアの後を継いで8代目の女王になったリリウオカラニですが、兄が王であった時代の後半から、女王として国を治めていた2年間、その後ハワイが王国から共和国になった時代と、女王にとっては波乱の連続であったと思われます。

 

1887年2月、妹のリケリケ王女が亡くなります。そして同年7月には、カラカウア王が国内の経済界からの圧力を受け、王の権力を制限する新憲法に無理やり署名を求められると云う窮地に陥ったため、夫君のジョン ドミニスと共にカピオラニ王妃に同行して、ビクトリア女王のジュビリー出席のために英国を訪問していたリリウオカラニは、急遽欧州大陸への旅行を取止めて帰国。

 

王権とネイティブ ハワイアンの人々の権利を取り戻すべく、兄が署名した憲法を、カメハメハ五世が制定した1864年憲法の趣旨に戻そうと試みます。しかし、サンフランシスコでのカラカウア王の客死を受け1891年1月30日にハワイ王国第8代目の女王になったリリウオカラニは、自身も良しとしていなかった1887年憲法を遵守すべく宣誓を求められ、且つ女王本人は兄の葬儀が終わってから王位を継承したいと考えていたものの、これも内閣から即時王位に就くように求められ、早められてしまいます。

リリウオカラニ作詞作曲のアロハ オエの楽譜
(ビショップ博物館の展示物より)

リリウオカラニ女王 (写真提供:ビショップ博物館)

2年の在位中、西欧人中心の経済界とハワイアンの人々との対立は更に激化していきます。一方、米国への砂糖の輸出では、所謂マッキンリー タリフにより米国への全ての砂糖輸入への関税が撤廃されたため、米合衆国とハワイ王国との間で結ばれていた互恵条約がその意味を失ってしまいます。砂糖農園所有者の間では、王権が維持されることにより自分達の土地が没収されるのではないかとの警戒心も広がり、その結果、親米派や米国への併合を良しとする力が、より強くなっていきました。そのような状況下で、1893年1月、リリウオカラニは1864年憲法に近い新憲法を発布しようと試みますが、一部の大臣の同意を得られず、退位を迫られます。

 

王国が消滅し、国がハワイ共和国となっていた時代の1895年の1月、王政復古を求める武装蜂起が起きました。女王の邸宅の庭から武器が発見されたと云う理由で、リリウオカラニは共和国政府により反逆罪の罪で逮捕され、裁判では犯罪隠匿の罪に軽減されたものの、イオラニ宮殿での8ヶ月幽閉を宣告されます。宮殿を正面から見て2階右端の角が、女王が幽閉されていた部屋にあたります。1月6日に起きた、王国と女王に忠誠を誓う人達の共和国転覆の行為については、女王はその人達を知っていたものの、その計略に女王本人が関わっていたか否かは分かりません。

 

リリウオカラニはイオラニ宮殿に幽閉されたものの、本やギターの部屋への持込みは制限されず、既に作詞してあった「アロハ オエ」はこの間に作曲したものとも伝えられていますが、この曲はオアフ島北部の牧場での妹のリケリケの恋物語を歌ったもので、幽閉以前に作られていたとの説もあります。

 

ところで、国としてのハワイの行方ですが、大統領が民主党のクリーブランドから共和党のマッキンリーに代わることにより米国の政策が変わり、1898年7月7日にマッキンリー大統領がハワイの併合法案に署名。8月12日にはイオラニ宮殿でハワイ国旗が降ろされ、星条旗が掲揚されました。そしてハワイは1900年6月4日に正式に米合衆国の準州になる歴史を辿ります。その間、女王はホノルルで余生を過ごし、1917年(大正6年)11月11日にこの世を去りました。 アロハ オエ!

 

1898年イオラニ宮殿でハワイ国旗が降ろされた
(ビショップ博物館の展示物より)

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  • 浅沼 正和
    Masakazu Asanuma
    担当講師

    【インタビュー動画あり】
    ハワイ在住通算27年目を迎える。2001年からビショップ博物館で日本語ドーセントのボランティアを始め、2003年に同博物館の会員組織を代表する Bishop Museum Association Council のメンバーに選出され、現在に至る。他に、ハワイ日米協会理事やハワイ日本文化センターのBoard of Governor 等を務め、日布間の文化交流活動に従事している。海外の訪問国と地域の数は95箇所に及ぶ。

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