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2018.04.05

ハワイ準州時代の日系移民と、そのリーダー達

ハワイ準州時代の日系移民と、そのリーダー達

20世紀前半のハワイ日系人の歩み

ハワイは王国終焉後、臨時政府、共和国の時代を経て、1900年(明治33年)に米合衆国の準州(テリトリー)となり、1959年(昭和34年)に50番目の州に昇格しました。

日本からハワイへの移民の歴史は1868年の「元年者」から始まりますが、明治政府が正式に認めた「官約移民」は1885年(明治18年)に開始され、王国が消滅した翌年の1894年(明治27年)まで10年間続きました。ハワイが共和国になってからは民間会社が移民を斡旋する「私約移民」が行われ、1900年に準州になってからは米国の法律の下、「自由移民」として砂糖農園での労働を主にした渡航が継続されたのです。
一方で、布哇(ハワイ)への渡航目的で発行された旅券保持者の米本土の再渡航を良しとしない日本政府の方針にはそぐわなかったものの、ハワイが米国の一部になったことにより米本土への転住も増加していきます。
他方、カリフォルニアを中心に日本人排斥運動が起こり、1907年(明治40年)に日本は、その対応策として労働目的の旅券発給を控える旨の紳士協約を米国と結び、これ以降は、既に米本土やハワイに渡っていた日本人が近親者や配偶者等を招くことのみが許される「呼び寄せ移民」の時代へと移っていきました。
しかし日本人排斥の動きは更に加速。1920年(大正9年)には写真結婚者への旅券交付が中止され、関東大震災の翌年1924年(大正13年)には、米合衆国でジョンソン・リード法と呼ばれる移民法、所謂排日移民法が施行され、カナダも同様の処置を取ったことから、日本から北米、ハワイへの移民は終わりを告げます。しかし、この年1924年のハワイ砂糖農園における日系労働者の数は既に総数の約70%にまで達していました。

ワイパフ、プランテーション ビレッジの光景。砂糖キビを運ぶ鉄道と遠方に見える砂糖工場

砂糖農園での低賃金と過酷な労働条件、出身国や地域による差別が続く中、20世紀に入るとオアフ島の砂糖農園でのストライキの動きが加速します。その中で何人もの指導者が現れますが、代表的なのは日本語新聞「日布時事」の社長兼編集責任者、相賀安太郎と、英国人を父に横浜で生まれ、日本語新聞「ハワイ報知」を立ち上げる牧野金三郎です。彼らの大規模ストライキへの働きかけは、日系社会全体に受け入れられたものではなかったとも伝えられていますが、「増給期成会」を結成し、活動を進めていきました。結果、1909年(明治42年)オアフ島内全ての砂糖農園で3か月に及ぶストライキが実施されましたが、彼らはストライキを扇動した罪に問われ4か月間投獄されています。

第1次世界大戦が終結し、景気が回復し物価が高騰してきた1920年(大正9年)には日系に加え、フィリピン系の人達もストを始めますが、一方で米国人のキリスト教牧師や日本人商工会議所、曹洞宗や本派本願寺の開教師、日本人牧師等の主要な日本人が主体となり、農園主側との間の調停の動きが活発化し、長年にわたった砂糖農園での労働者ストライキはその年に終結しました。
調停にあたった1人に、同志社で神学を学びハワイに渡った、高知県出身の奥村多喜衛牧師がいます。奥村は、日系2世の教育にも力を注ぎ、教会活動も熱心に進め、1932年(昭和7年)に高知城を模して設計されたマキキ聖城キリスト教会を建てています。
前述の牧野は、スト終結後も日本人排斥の動きが更に進む中にあって、日系人の権益擁護の活動を進め、日本語学校に対する制限が加わる中、その規制と取り締まりは米合衆国の憲法違反だと訴え、1927年に連邦最高裁で勝訴しています。

準州時代、3年契約の砂糖農園での労働を終え、町に出て商業を営む日系人も増えていきますが、大学を卒業してもビジネスの主たる業務には就けない差別は歴然として残っていました。そこに、1941年(昭和16年)12月7日の真珠湾攻撃が。この時点でのハワイ準州内の日系人の人口は全体の40%近くに達していましたが、その主たる人達は収容所に送られ、若者は米国兵として戦場へと出兵していきました。

第2次世界大戦が終り、米国陸軍に所属した日系兵士の内、無事帰国を果たした人達が戦後のハワイ準州の各分野で指導的役割を果たしていくことになります。そして、砂糖産業を中心に長年ハワイ経済を牛耳ってきた「ビッグ ファイブ」と称される5財閥と、その基盤の上にあった共和党に対し、戦後は日系人を中心とした対抗勢力が生まれ、ダニエル イノウエやカウアイ島生まれの高橋栄(さかえ)等の政治に関わる人達が中心となり、ハワイにおける民主党の台頭につながり、ハワイを米合衆国の州に昇格させる活動も進められていきました。
当時の金融界も又、日系人に対する融資などに非協力的であった時代です。高橋は住友銀行の協力を得て、1954年(昭和29年)にセントラル パシフィック バンク(中央太平洋銀行)を設立し、日系人の営む企業への支援にも貢献しました。

ホノルルのダウンタウン、セントラルパシフィック銀行本店前に在る、銀行開設当時の紹介プレート

以上、ここでは極めて限られた日系リーダーの名を挙げましたが、その他にも各分野で多くの指導者が活躍していたことを付記しておきます。

この章のポイント

  • 準州時代の日系人は、砂糖農園での労働ばかりでなく商業にも多く進出し、戦後は各界の指導者としてハワイの発展に貢献していきました。

付帯的な情報・発展情報

ビッグ5とは、Alexander & Baldwin, American Factors(現在の Amfac ), Castle & Cooke, C. Brewers & Co., Theo H. Davies & Co. の5社を指します。

 

  • 浅沼 正和
    Masakazu Asanuma
    担当講師

    【インタビュー動画あり】
    ハワイ在住通算27年目を迎える。2001年からビショップ博物館で日本語ドーセントのボランティアを始め、2003年に同博物館の会員組織を代表する Bishop Museum Association Council のメンバーに選出され、現在に至る。他に、ハワイ日米協会理事やハワイ日本文化センターのBoard of Governor 等を務め、日布間の文化交流活動に従事している。海外の訪問国と地域の数は95箇所に及ぶ。

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