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所用時間5min
2021.03.02

ホノルル港

ここがポイント

生活するために必要な物の大部分を輸入に頼るハワイで、港は大きな役割を担っています。ハワイの州都の名と同じ「ホノルル」と名の付くホノルル港。その歴史を詳しく学びます。


現在、ハワイの州都となっている「ホノルル」。このホノルルという都市の名は、ホノルルの港に付けられた名前から生じたもので、ホノルルの街は「ホノルル港」が起点となって誕生しています。ハワイの歴史上、非常に大事な役割を担ってきているホノルル港について、その歴史や役割を見てみましょう。


現在のホノルル港の姿

ホノルル港はオアフ島の南海岸にある、カカアコ地区、政治経済の中心地ダウンタウン、カリヒ地区に隣接する部分、およそ5㎞に渡って湾に沿って造られており、湾の中心部にあるサンド・アイランドも含めて、計53の埠頭(ピア)が造られています。大型客船が着岸するピア2、サンセット・クルーズ用の船が発着する、アロハタワー横のピア8、マグロをはじめとした魚介類の水揚げと競りが行われ、シーフードレストランもあるピア38は、一般の人々もアクセス可能ですので、訪れたことのある方も多いのではないでしょうか。


(ピア2。ハワイの主要な4島を巡るクルーズ船が着岸している様子。)


(ピア8。サンセット・クルーズやホエール(鯨)ウォッチング用の船が発着。)


(ニミッツ・ハイウェイ沿いにあるピア38入り口看板。)

現在はこのように、大型船も着岸でき、港の機能を維持するための施設が数々造られて現代的な姿を見せていますが、これまでに行われた様々な検証により、この場所には1100年代には人が住み始めていたといわれ、小さな漁村から始まった場所だったようです。


遠浅のワイキキ、底の深いホノルル・ダウンタウンの海

現在のホノルル港、および、ホノルルのダウンタウン(ヌウアヌ・アベニュー、ホテル・ストリート、アラケア・ストリート、クイーン・ストリートに囲まれた辺り)は、かつては「コウ(Kou)」と呼ばれていた場所でした。現在もダウンタウンを流れるヌウアヌ川が海に注ぎ込む場所で、流れ来る真水により海底は削られ、さらに、真水により珊瑚が育たないことから、ワイキキの海に比べて水深が深く、大きな船を着岸できるような構造となっていました。ちなみに、ワイキキが遠浅であることで、1800年代後半から1900年代初頭にかけて、航路を間違えた石炭を積んだ船、2隻が、ワイキキ沖で座礁しています。


「ホノルル」―名前の由来

ハワイアンが、ホノルル港のある湾をカヌーの発着所として使っていた頃のこの地の呼び名は、「クロリア(Kulolia)」、「クロロイア(Kuloloia)」、「ケアヴァオコウ(Ke awa o kou:コウの港)」でしたが、1794年、ウィリアム・ブラウン船長率いる英国船「バターワース号」が、外国船として初めて湾に入り、船長がこの場所を「フェア・ヘイブン(Fair:美しい Haven:港、安全な場所)」と呼びました。それがおおまかな形でハワイ語に訳され、ホノルル(Hono:湾、lulu:守られた、静かな)という名が生まれました。


様々な目的を持った船が寄港する港に


(1816年頃に描かれたホノルル港の様子。)

1794年のバターワース号から始まり、ホノルルの港には様々な目的を持った船が訪れるようになります。


サンダルウッド(白檀)の輸出

オアフ島で採れるサンダルウッド(白檀)が中国で非常に高く売れることから、アメリカ、ハワイ、中国を結ぶ貿易船が多数寄港するようになりました。カメハメハ大王も、自らこのサンダルウッド貿易に関わり、サンダルウッドの輸出により、ハワイの経済に大きな成功をもたらしています。ハワイ島出身の大王自身、1795年にオアフ軍との戦い*で勝ち、ハワイ島からオアフ島までを手中に収めた後、ワイキキに居住し統治していましたが、ホノルル港の重要性を鑑み、1809年にホノルル港の目の前に、女王とその家族、家臣や戦士達と共に居を移しました。

大王が亡くなった1819年からは、息子であるカメハメハ2世が、サンダルウッドの伐採から輸出までのマネージメントを引き継ぎますが上手く管理できず、サンダルウッドは乱獲により激減、ハワイは経済の支えを一つ失いました。


*オアフ軍との戦いについて詳しくは、こちらをご覧ください。


捕鯨船の寄港、そして港を中心に街ができ始める

サンダルウッドの輸出と入れ替わるように、1819年、アメリカ東海岸から太平洋に捕鯨にやってきた2隻の船がホノルル港に到着し、ハワイにおける捕鯨時代が幕を開けました。多くの捕鯨船が寄港するようになってから、1820年までには、港に隣接する地に、帆の製造や補修をする店、宿泊施設や飲食店、洗濯屋、鍛冶屋などが並ぶようになりました。

港に隣接する地が、ビジネス街として発展していくと、それぞれのビジネスオーナーや従業員達も、交通手段の選択肢がないため、仕事場の近くに住居を構えるようになり、ホノルル港周辺のビジネス発展と共に、人口も増えていきました。街としてのホノルルのはじまりです。捕鯨の最盛期だった1846年には、736隻がハワイの港に寄港しており、ホノルルの港の賑わいが想像できるのではないでしょうか。



キリスト教宣教師一行の上陸

ハワイの社会を劇的に変えていくことになる、キリスト教宣教師の一行も、ホノルル港を通してオアフ島に上陸し、拠点を築きました。アメリカ東海岸のボストンを出発した宣教師一行は、1820年、ハワイ島西海岸、カイルア―コナに到着しますが、カメハメハ2世により上陸許可が保留とされました。後に、オアフ島のホノルルへの上陸を許可され、ホノルル港からもほど近い場所に土地を与えられました。ハワイ初の石造りの教会として、歴史あるカワイアハオ教会がその地となります。カメハメハ2世と共に、当時のハワイ王国を治めていたカメハメハ大王の妃の一人、カアフマヌ女王を含め、その後のカメハメハ3世以降も宣教師を側近に迎え、ハワイの西洋化が推し進められていくことになります。


(イオラニ宮殿からキング・ストリートを挟んで向かい側にあるカワイアハオ教会。)


港の拡張、掘削工事が始まる

多数の貿易船、捕鯨船の寄港により、相当な人数の船員の宿泊や物資の補給で、ホノルルの街も発展していくことになります。

ホノルルの街の発展について詳しくは、こちらをご覧ください。

同時に港自体も、1825年に最初の埠頭が造られてから、1840年には、港の底を深く掘り下げる最初の工事が行われ、その後も、水路の拡張や埋め立て工事が行われ、埠頭の数も増え、港としての姿も徐々に大きく、より機能的になっていきました。港の発展の様子を、写真で見てみましょう。


(1875年頃のホノルルを描いた絵。)


(1900年に入る前のホノルル港の様子。)


(1903年のホノルル港の様子。)


(1920年代のホノルル港の様子。完成したばかりのアロハタワーが見える。)


(1933年のホノルル港の様子。)


(1940年代のホノルル港航空写真。)


砂糖の輸出と移民船の入港

捕鯨と並んで、ハワイの経済をその後大きく支えることになる、商業規模でのサトウキビ栽培が1835年にカウアイ島で成功しました。記録に残っている最初の砂糖の輸出は1837年、その後、砂糖の生産量は増え続け、1846年の輸出量は136トン、1857年には3倍の544トン、そして、アメリカ国内で起こった南北戦争により、アメリカ南部での砂糖生産が滞ったことを背景に、ハワイ産の砂糖への需要が高まり、1874年には1万トンを超える量の砂糖が、ホノルル港からアメリカに送られました。

このような大量の砂糖の生産を可能にしたのは、プランテーションでの労働力としてハワイに移住した移民の力でした。1852年の中国からの契約による移民を皮切りに、1877年からポルトガル人、1885年から日本人、1906年からフィリピン人移民など、世界各地から船で、多くの移民がホノルル港に入港しました。


伝染病の上陸を防ぐために―サンド・アイランド/隔離島(Quarantine Island)


(1927年のホノルル港の様子。写真上部にサンド・アイランドが見える。)

1778年、クック船長がハワイを「発見」し、ハワイと西洋が出会ったことは、ハワイの社会や文化に大きな変化を与えていくことになっただけでなく、それまでにハワイにはなかった病気のハワイ上陸を許してしまうことにもなりました。1804年にはコレラにより、およそハワイ在住者15,000人が死亡。インフルエンザ、はしか、おたふく風邪、百日咳も人々の間に広がり、1800年代初頭は、人口の急減がハワイにとっては大きな問題となっていました。

カメハメハ3世が、1839年に検疫に関する法律を制定し、ハワイに向かう全ての船に対し、船内で伝染病が発生した場合は、船そのものを船員ごと隔離するなど、この問題に対処する努力を始めますが、伝染病による人口の減少はさらに続き、ハワイにおける労働力不足が発生するなど、新たな問題を生み出していきました。


1800年代中頃になると、サトウキビ生産が勢いをつけ始めますが、病気によって減少した労働力を補うためにも、外国からの移民を多数受け入れる政策が取られました。次々とやってくる移民船においても、船内で天然痘の発症が確認されるなど、ハワイの外からやってくる病気との戦いは続きます。

そこで1853年、後にカメハメハ5世となるロット王子により、ホノルルの港の沖にできていた砂州が、隔離の場所として指定されました。砂州を埋め立てによって拡張し、伝染病が確認された船は港ではなく、その砂州に着岸させ、船の乗員を一定期間隔離する施設を設け、船を消毒できるようにしました。この砂州は「隔離島(Quarantine Island)」と呼ばれました。



(「隔離島」へと続く橋を渡る日本人移民。1893年。)

1898年のハワイのアメリカ併合後も隔離島は使われ、当時のアメリカ国内では最大の隔離施設となっていました。2,255名を収容できる施設と、2つの病院、そして火葬場が備えられていました。


(「隔離島」の様子。1914年。)

隔離島は1910年に拡張工事が行われた後、「サンド・アイランド」と呼ばれるようになりました。サンド・アイランドは、第一次世界大戦中からアメリカ軍が使用するようになり、日本軍によるパールハーバー攻撃以降、ハワイ在住の日本人、日系人が捕虜となった際に、収容所として使われていました。

現在は、ホノルル港の一部として埠頭が設けられ、また、州が管理する「サンド・アイランド・ステイト・レクリエーション・エリア」として、ピクニックや釣り、キャンプなどが楽しめるようになっています。



観光客を乗せた客船の入港

1920年代に入ると、湿地帯だったワイキキで土地改良が進み、観光業がハワイの経済の大きな柱となっていきます。蒸気を動力にした大型客船が就航し、多くの観光客をアメリカから輸送することが可能になり、ハワイの観光地化がさらに進むことになります。

ホノルル港に到着した船から降りた乗客は、レイとハワイアンミュージック、フラで歓迎を受けました。同時に、大量の砂糖やパイナップルなどの輸出、また、ハワイの中で必要な物品や食料の輸入なども加わり、飛行機による人と物の輸送が本格化する1950年代まで、ホノルル港は非常に重要な役割を果たしていたことになります。



アロハタワー



ホノルル港のシンボルとも言えるアロハタワーは、5年の歳月をかけ、1926年に完成しました。高さ56m、10階建てのビルと同様の高さとなり、当時としては最も背の高い建物で、最上階は展望台となっています。アロハタワーは、船でホノルル港を目指す人々にとっての目印となり、大きな時計の上に見られる大きなALOHAの文字が、人々を温かく迎え入れていただけでなく、海上24㎞先から確認できる、灯台としての役割も果たしていました。



第二次世界大戦中から1947年まで、アロハタワーはアメリカ軍の指令センターとして使われており、夜間に海上や空から見えにくくするために、迷彩色に塗られたこともありました。



現在は、アロハタワーに隣接して建てられたマーケットプレイスは大学の施設として使われていますが、レストランやカフェがあり、アロハタワーの展望台*にも上がれるようになっています。

*新型コロナウイルスに関する政府の方針に基づき、現在は一時的にクローズとなっています。




ホノルル港の現在の役割

小さな漁村から始まったホノルル港の歴史。飛行機が輸送に使われるようになるまで、ハワイを出入りする人や物品には、全て船が使われており、外の世界とつながるドアにあたるものが港でした。現在も、ハワイで生活するために必要となる物の80%は輸入に頼っていることから、ハワイにおける港の重要性は非常に高く、年間1100万トンもの物資がハワイに到着している計算になります。巨大なタンカーも含め、現在も様々な船が昼夜問わず行き来し、コンテナの積み下ろし作業も、忙しく行われています。




ハワイ王国の首都として、そして現在もハワイ州の州都として、政治・経済の中心地を担う都市「ホノルル」が生まれる、そのきっかけを与えた「ホノルル港」。この港の重要性に気付いていたカメハメハ大王もきっと、今のホノルル港の姿を見たら、納得の表情を見せるのではないでしょうか。



(白黒写真はHawaii State Archivesより、他の写真はHawaii Historic Tour LLC所有)
  • ロバーツさゆり
    Sayuri Roberts
    担当講師

    東京生まれ。筑波大学・比較文化学類にて北米の歴史・文化を学び、英会話スクールの講師等を経て、結婚を機にハワイへ移住。Native Hawaiian Hospitality Association主催の歴史ツアー「Queen's Tour(当時)」に参加し、ツアーガイドの方に、日本語の通訳を頼まれたことから、2004年、ガイドとして登録、研修の上、日本語の歴史ツアーを始める。2006年、「Queen's Tour」の終了を機に、ツアーの継続について主催者の了承を得て、Hawaii Historic Tour LLCを発足、「ワイキキ歴史街道日本語ツアー(当時)」(その後「ワイキキ歴史街道ツアー」に改称)を開始。2007年、「ダウンタウン歴史街道ツアー」もスタート。テレビ、ラジオ、雑誌等、メディア出演多数。 『お母さんが教える子供の英語』(はまの出版)著者。

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