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2018.07.11

ピクチャーブライド

ここがポイント

異民族間の婚姻が一般的でなかった時代でもあります。ハワイに日系人が定住していく過程で、ピクチャーブライドと呼ばれる女性の移民は、郷里の人達の助けを借りた、結婚の重要な手段でした。

ピクチャーブライド

写真花嫁
写真だけを頼りに1人で海を渡り、ハワイに嫁いだ女性達

ハワイ島西部、カイルアコナの町から南へ。フアラライ火山の急斜面に沿ってコーヒー農園を見ながらしばらく南に下っていくと、キャプテンクックと云う地名に出会います。その道沿いにマナゴ ホテルと云う、ビーチリゾートとは全く縁のないホテルがあります。
福岡県出身のマナゴさんが1917年に建てた宿泊施設ですが、初代の奥様が、あるビデオ証言で、「私は写真花嫁としてハワイに来た。良いところだ! 良いところだ! と聞いてはきたのだがーー」と方言まじりでご苦労話を語っていたのを思い出します。


ピクチャーブライド(写真花嫁)と呼ばれる人達は、写真を交換することのみで、既にハワイに移住し働いていた日本人男性のもとに嫁いだ女性達です。

 

1868年に初めてハワイに集団で移民した元年者150名ほどの中に、女性(妻)は6名しか居ませんでした。1885年に始まった官約移民以降も、砂糖農園での労働による出稼ぎが目的での渡航でしたし、当時の日本の家長制度の下で、次男、三男が出稼ぎに出る例も多く、男性のみでの移民が多くを占めました(官約移民第1回船での渡航者944名中、夫婦での渡航は150組ほど)。
官約移民以降は、広島、山口、熊本、福岡県にとどまらず、福島や沖縄などからも砂糖農園での労働目的での移民が増えていきますが、数年の出稼ぎのつもりでハワイに渡ったものの、その後定住する人の数も増え、後述の「呼寄せ時代」に、郷里の親や親戚、仲人を介して写真を交換して結婚を決め、事前に1度も会うことなく新妻を呼寄せることが盛んに行われるようになりました。

砂糖農園での労働者として日本からの移民を多く受け入れていたハワイは、王国から共和国、米合衆国の準州(テリトリー)へと国の形態を変化させていきました。
それに伴い、米国型の考え方、習慣、宗教などが大きく影響し始め、特に1900年にハワイが米国の準州になってからは米国の法律が適用され、移民斡旋業者が仲介して労働者をハワイに送り込む「私約移民」は奴隷制度と同様にみなされ、業者を通じての渡航は法律で禁止され、それ以降は個人的に移民する「自由移民」の時代に移ります。
同時期、カリフォルニアで日本人排斥運動が起こり、1907年(明治40年)に日本は、その対応策として労働目的の旅券発給を控える旨の紳士協約を米国と結び、これ以降は、既にハワイや米本土に渡っていた日本人が近親者や配偶者等を招くことと再入国者のみが許される「呼寄せ移民」の時代へと移行。この紳士協約には写真結婚の対象者である女性は含まれず、写真結婚者の渡航が禁止されるまでにハワイに渡った女性は、およそ2万人に及んだとのことです。当時は、日本人どうしの婚姻により安定した家庭を作ることは、ハワイ日系人のより良い社会秩序を築く上で好ましいと、ハワイ側も日本側も考えていたと思われます。
しかし日本人排斥の動きは更に加速し、1920年(大正9年)には、米国から、写真交換のみで結婚することへの疑義を投げかけられた日本は、写真結婚者への旅券交付を中止。オアフ島の砂糖農園で第2次の大規模ストライキが起こった頃にあたります。
そして、1924年(大正13年)には、米合衆国でジョンソン・リード法と呼ばれる移民法、所謂排日移民法が施行され、労働目的の日本から米国への渡航は終止符を打つことになります。

1915年(大正4年)頃と思われる、ホノルル港の移民局に並ぶ写真花嫁達の写真。 (Hawaii State Archives Photograph Collection, PP-46-5-019)

1935年(昭和10年)に日布時事社が発行した「官約日本移民布哇渡航五十年記念誌」に、大正の初めに在ホノルル日本国総領事を務めた方の「寫眞結婚時代」と題する記事が掲載されています。当時のハワイでの状況や時代背景が分かりますので、下記に紹介します。

「私のホノルル在任期は大正元年から大正三年までだった。当時は呼寄せ婦人が大挙して入国しつつあった時代で、日本では入籍後六箇月しなければ送らないといふ規定を設けて、可なりの手心を加へてはゐたものの、アメリカ側ではこれを目して僅かに手紙の遣り取り位で重大な結婚を取決めることは軽率も甚だしいとて、非難反対の聲が高まり、呼寄せ禁止問題も起こつたりしてごて付いた。こういふことが影響して呼寄婦人に対しては移民局でアメリカ式に結婚宣言をせしめることになり、握手にキツス位で式をやるやうになつたが、日本人には耶蘇教徒ばかりではないので不便だとて後に佛教各派の式に依つて思ひゝに結婚式を挙げるやうになつた。私の在任中に約三千人の婦人がハワイに入国した。(原文のまま 以下、省略)」

上記によれば、大正元年(1912年)から同3年(14年)までの間(その総領事の在任期間は1913年12月までとの別の記録もある)だけでも3千人の写真花嫁が米合衆国ハワイ準州に入国したことになりますし、それに対する米国側からの批判も大きくなりつつあったことが読み取れます。

日布時事社発行の「官約日本移民布哇渡航五十年記念誌」

ピクチャーブライドと称される女性達。日本の家族から遠く離れて1人で海外に嫁いだ人達です。ホノルル港の入国管理を無事通過し、初めて会う夫と共に向かった砂糖農園の生活環境は一様に期待を裏切る苦しいものでした。10代で渡航した人も居て、その多くが全く違った環境の下で気丈に振る舞い、一心に働き、子を育てた1世の婦人達でした。

 

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排日移民法とハワイの日系人

補足事項

上記の写真結婚者の女性2万人には、朝鮮半島からの女性も含まれます。
ピクチャーブライドは、米本土でも行われていましたが、その大半はハワイへ嫁ぐ人達でした。
出身地の方言をそのまま使い、ピジンを話し、砂糖プランテーションにお国言葉を残したのも彼女達でした。

  • 浅沼 正和
    Masakazu Asanuma
    担当講師

    【インタビュー動画あり】
    ハワイ在住通算27年目を迎える。2001年からビショップ博物館で日本語ドーセントのボランティアを始め、2003年に同博物館の会員組織を代表する Bishop Museum Association Council のメンバーに選出され、現在に至る。他に、ハワイ日米協会理事やハワイ日本文化センターのBoard of Governor 等を務め、日布間の文化交流活動に従事している。海外の訪問国と地域の数は95箇所に及ぶ。

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