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2014.04.09

カメハメハ五世

四世の兄、ロット カプアイヴァがカメハメハ五世として王に。

  • 五世の時代、王国の経済を支えていた捕鯨基地としての存在は、砂糖産業に大きく変換していき、西欧人の農園主や貿易商が経済界を牛耳る時代へと移行していきます。


「ロット カプアイヴァ」はカメハメハ五世の名です。正確にはハワイ語のもっと長い名前を持っています。カメハメハ四世として先に王になった弟、アレキサンダー リホリホの下で内務大臣等を務めたロットは、1863年11月、四世の死を受けてハワイ王国の五代目の王になりました。

 

五世の時代には、王国の経済に変化が生じます。1859年にペンシルバニアで石油が発見されて鯨油の需要が減り、1771年にはベーリング海で33隻の捕鯨船が氷に閉ざされる事件が起こり、これが切っ掛けとなり捕鯨の盛んであった時代は終わりを告げ、砂糖産業が国の第一産業になりました。

五世は王になってすぐ、砂糖農園での労働力不足に直面します。カウアイ島プリンスビルの農園主でもあった外務大臣ロバート ワイリーの勧めもあり、1864年に移民局を創設します。砂糖にかかる関税を無くす為、米合衆国との互恵条約締結を進めようとしますが、締結には至りませんでした。四世同様に米国との関係には一線を置き、併合されないように神経を尖らせていたことも、条約締結に至らなかった要因の一つだったのではないでしょうか。

20年以上王国の要職に在り、五世の下でも大臣を務めたワイリーは西欧人ではあるものの、ホノルルのダウンタウンの山手、マウナアラの王家の墓に葬られていますので、王国にとって大変重要な人であったことがうかがえます。

マウナアラのワイリーの墓

因みに、ワイリーの他に、大王の参謀を務めた、エマ王女の祖父でもあるジョン ヤングと、バニース パウアヒ王女の夫君チャールズ ビショップも、西欧人ながらマウナアラに安置されています。

王家の墓は元々、イオラニ宮殿の前庭にありましたが、四世が亡くなった頃には葬る場所が不足し、新しい墓地建設が計画され、現在のマウナアラの墓地が完成しました。1865年10月30日満月の夜に、カメハメハ五世も参加して、イオラニ宮殿からキング通りを西に向い、ヌウアヌ通りを通って、カヒリに守られた棺がマウナアラへ運ばれました。

マウナアラの王家の墓地

五世の時代には、米国との間の海運がより便利になります。1867年には米西海岸とハワイの間に蒸気船の定期航路が運航を開始しました。その一年前の1866年には「トムソーヤの冒険」を書いた小説家マーク トゥエインがハワイを訪れ、その様子を新聞に投稿し、オアフとハワイ島での出来事につきLetters from Sandwich Islands と云う本を書いていますので、米本土でのハワイへの関心も高まりつつあったのかもしれません。

五世は、自国民にも西欧人に対しても大へん厳しい王だったと伝えられています。カメハメハ大王の孫として、ロイヤルスクール(ハワイ語で Kula Keiki Ali’i)で宣教師のCook 夫妻により英語の教育を受けていたものの、会話はハワイ語で通し、議会でもハワイ語を使い、英語の通訳を置きました。カメハメハ大王に近い強い性格の持ち主だったとも伝えられていますが、1871年に、6月11日を祖父である大王を記念する「カメハメハ デー」を制定したのも五世でした。

王は亡くなる前の病床に、カメハメハの末裔にあたるビショップ氏の妻、バニース パウアヒ王女を呼び後継を頼みますが、その望みは受け入れられず、1872年12月11日に、後継者を選ばずに42歳で亡くなりました。五世もマウナアラに安置されています。

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  • 浅沼 正和
    Masakazu Asanuma
    担当講師

    【インタビュー動画あり】
    ハワイ在住通算27年目を迎える。2001年からビショップ博物館で日本語ドーセントのボランティアを始め、2003年に同博物館の会員組織を代表する Bishop Museum Association Council のメンバーに選出され、現在に至る。他に、ハワイ日米協会理事やハワイ日本文化センターのBoard of Governor 等を務め、日布間の文化交流活動に従事している。海外の訪問国と地域の数は95箇所に及ぶ。

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