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所用時間5min
2014.01.17

19世紀中頃のハワイ

ここがポイント

1850年には500隻の捕鯨船がハワイに入港
・石油が発見される前、鯨油は灯火と機械油として使用され、捕鯨は重要な産業でした。
・北太平洋の真ん中に位置するハワイは、捕鯨基地として繁栄をしていました。小説「白鯨」で想像出来ます。

1825年に若くして王位に就いたカメハメハ三世は、最長の30年間在位していました。この間、王国は米英仏の大国に領土の割譲を迫られ翻弄され、国の存続も危ぶまれる時代でしたが、国の経済は捕鯨船の補給と販売の中継の基地としての役割を担い、繁栄していました。


三世は王国の憲法制定に着手します。ハワイ語も堪能であった宣教師 Gerrit Judd と William Richards の助言を受け1840年にハワイ語で草案が作成され、同年10月に憲法が制定され、ハワイアンの人々の選挙権も一部認められました。1848年にはグレート マヘレと呼ばれる土地の分配を施行し、島々全体の三分の一の土地を王領とし、他を一般人にも分配し、 外国人の土地所有も承認されました。

1849にはアメリカ合衆国とハワイ王国との和親条約が結ばれ、ゴールドラッシュで湧く米西海岸への輸出が拡大したことも引き金となり、私有地を認められた西欧人により砂糖農園の規模は拡大の一途を辿りました。ハワイ島北部に広く広がるパーカー 牧場もこの時代に始まっています。 一方、ネイティヴ ハワイアンの人々は昔からの習慣で土地所有の観念を持っておらず、土地は神から授かった皆のもので、それを分け合って使っていると云う概念でしたので、西欧人の持ち込んだ個人土地所有の考えは、ハワイアンの人達にとって理解しがたいことだったと想像出来ます。

カメハメハ三世は1854年12月に亡くなります。日本ではペリー提督が横浜に上陸し、日米和親条約が結ばれた年にあたります。そして三世の死後、王国は、若い時に西欧人から英語で教育を受けたカメハメハ大王の孫の時代へと移っていきました。
 


カメハメハ三世 写真提供:ビショップ博物館


1855年1月、三世の養子(ハワイ語でハナイ)であったアレキサンダー リホリホが四世として即位します。 
対米国に比し英国との関係を重視した王でした。大王の参謀として活躍したジョン ヤングの孫で四分の一は英国の血が流れているエマ ルークと、英国国教会の牧師の司式により結婚式を挙げています。

1860年には、日米修好通商条約批准のための日本の使節団を乗せたポーハタン号と共にサンフランシスコに向かった咸臨丸が復路にホノルルに寄港し、滞在中に代表団が四世とエマ王妃に謁見しています。漂流して鳥島に流れ着き、米国の捕鯨船「ジョン ハウランド号」に救助されて1841年(天保12年)にホノルルに上陸した経験のあるジョン万次郎が、この時の咸臨丸一行の通訳を勤めています。四世は、息子のアルバート王子を幼くして亡くした後に体調をくずして1863年に死去し、四世の兄であるロットがカメハメハ五世としてその後を継ぎました。五世は、米国との関係においては四世と同じく一線を画し、併合されることには神経をとがらせていたようです。一方、砂糖にかかる関税を無くすために、4世と同様に両国間の互恵条約締結を進めようと試みていました。この時代はハワイ経済が急変した時代でもありました。1859年にペンシルヴァニアで石油が発見されたことと、1871年 には33隻の捕鯨船がベーリング海峡の北で氷に閉ざされる事件が引き金になり、捕鯨が急速に減少し、代わって砂糖生産がハワイ王国第一の産業になっていきます。
 


カメハメハ四世 写真提供:ビショップ博物館

五世は一生を独身で過ごし、病床にカメハメハ系の末裔であるビショップ氏の妻、バニース パウアヒ王女を呼び後継を頼みますが、承諾を受けられずして死去し、ここでカメハメハの時代が終わりを告げます。1872年(明治5年)12月のことでした。 この後二代の国王は、議会の選挙で選ばれることになります。


カメハメハ五世 写真提供:ビショップ博物館

 

補足事項

マサチューセッツ南部、ナンタケット島とニュー ベッドフォードが、当時の捕鯨の中心地でした。米国の捕鯨船「ジョン ハウランド号」に鳥島で救助された万次郎はホノルルに着いた後にニュー ベッドフォードに行き、そこで生活をしていました。万次郎はナンタケット島を「ナンタケ島」、ニュー ベッドフォードを「ヌーベッホー」と書いています。そう聞こえたのでしょう。 当時の捕鯨船の状況は、メルヴィルの小説「白鯨」で想像出来ます。

  • 浅沼 正和
    Masakazu Asanuma
    担当講師

    【インタビュー動画あり】
    ハワイ在住通算27年目を迎える。2001年からビショップ博物館で日本語ドーセントのボランティアを始め、2003年に同博物館の会員組織を代表する Bishop Museum Association Council のメンバーに選出され、現在に至る。他に、ハワイ日米協会理事やハワイ日本文化センターのBoard of Governor 等を務め、日布間の文化交流活動に従事している。海外の訪問国と地域の数は95箇所に及ぶ。

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