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2014.10.03

エマ王妃

ハワイ王国第4代カメハメハ4世の王妃

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ハワイ王国第4代王カメハメハ4世のお妃、エマ王妃は本名をエマラニ・カラニカウマカアマノ・カレレオナーラニ・ナエアといい、1836年1月2日にオアフ島ホノルルにて、父、高位酋長ジョージ・ナエア、母、ファニー・ヤング・ナエアとの間に生まれました。カメハメハ1世の親友でもあり、助言者であったジョン・ヤングの孫娘にあたります。


ハワイでは当時、養子制度のようなものがあり、それは「ハナイ」と呼ばれていました。多くの王子や王女はハナイ・ペアレンツにより育てられ、そのまま位の高い家の養子になったと言われています。


エマ王女も同じ様に、生まれる前から約束されていた母方の姉、叔母のグレースとその夫、英国人の医者であったT.C.ルーク氏に引き取られ育てられました。そして後には合法で養子となっています。エマ王女はルーク氏から英国のマナーや文化を学び、同時にハワイの国民にとても強い関心を抱くようになりました。またルーク氏の強い影響で、イギリス国教徒にもなりました。

イギリス王国ヴィクトリア女王から贈られた銀の洗礼式の壷とエマ王妃

エマ王女も他の王女や王子と同じ様に、ロイヤルファミリーの通う学校に行きました。そのときの幼なじみ、アレクサンダー・リホリホは、後に夫のカメハメハ4世となります。1855年カメハメハ4世はハワイ王国第4代の国王になりました。 二人の結婚はエマ王女が20歳、カメハメハ4世が22歳の時でした。1856年、アメリカ宣教師の建てたカワイアハオ教会にて、英国国教に基づき、ハワイ王国の儀式を取り入れたハワイ王国史上最大の結婚式となりました。国民は喜び、王国の人々の愛と期待に包まれたと言われています。


その後エマ王妃は英国に習い、宮中礼式を確立しました。お二人の住まれた宮殿は今のイオラニ宮殿の敷地内にあったと言われています。その宮殿は当時の社交の中心であり、最も賑やかな場所になりました。

カメハメハ4世とエマ王妃

エマ王妃は1858年王子を出産しました。王子はアルバート・エドワード・カウイケアオウリ・レイオパパ・カメハメハと名付けられ、エマ王妃と親交の深かったイギリス王国のヴィクトリア女王からは栄誉王子の称号を受けられました。
エマ王妃とカメハメハ4世は、後にハワイ王国第7代王になったカラカウア王の妃であり、前夫の子供を死産したばかりの義理の叔母、カピオラニをプリンス・アルバートの乳母に任命しています。



エマ王妃は病にかかり、貧窮に苦しむ多くのハワイ国民の為に、ハワイで最初の病院を設立しています。王妃と王は自分たちのお金を寄付したり、自分たちで直接市民へ呼びかけ1件1件ドアをたたき、資金集めに回ったと言われています。その結果1860年にコーナーストーンを据え、妻であるエマ王妃を讃えるため「クィーンズ病院」という名前を付けた病院にしました。今でもクィーンズ・メディカル・センターとしてハワイでは大規模な総合病院となっています。病院の入り口にはエマ王妃の大きな写真にマイレのレイが掛けられています。



アルバート王子が2歳の頃、王も王妃も幸せな日々を過ごされていました。王はたびたび家族を伴い、別のハワイ諸島へ出向かれています。
王子2歳のとき、カウアイ島のハナレイを約6週間訪れたことがありました。その時に王子の名前にちなみ、プリンスヴィルという地名を付けられたそうです。
またハワイ島のフリヘエ宮殿にもよく行かれたと記されています。
ですが、残念な事にアルバート王子は4歳のとき、今では助かる虫垂炎にかかり亡くなりました。カメハメハ4世とエマ王妃の悲しみは長い間消えないまま、追い打ちをかけるように翌年1863年にはカメハメハ4世もこの世を去りました。 



1857年には叔父のジョン・ヤング2世から受け継いだヌウアヌ谷にあったサマーパレス(ハーナイ・アカマラマ)はエマ王妃の持ち物になっていました。
最愛の夫と息子に先立たれたエマ王妃は、二人の思い出がたくさん残るサマーパレスに引きこもり、王家の墓であるマウナアラに足しげく通い、2週間二人の墓の傍を離れなかったと言われています。王妃27歳の時のことで、その後はルーク家に戻りました。

4歳で亡くなったアルバート王子

カメハメハ4世が亡くなる少し前にエマ王妃はハワイに英国国教会を設立しています。1862年にスターリー主教がハワイに到着後、王と王妃は堅信式を受けられています。その後エマ王妃はハワイに英国国教会の大聖堂を築くため必要な資金集めに奔走しました。そしてその資金集めのため、1865年にエマ王妃は英国への旅を始めました。 結果1867年にハワイに帰国した王妃は聖アンドリュース大聖堂の起工式に参列しています。また、3人の英国国教会のシスターを3人、ホノルルへ迎え入れアンドリュース小修道院を設立しました。王妃の夢がかなった瞬間でした。


その後王妃は慈善事業や教会での手伝いなどを勢力的にこなしました。また、ハワイ島のフリヘエ宮殿へ出向いたり、ヌウアヌのサマーパレスでは各国からのお客様を招待し、パーティなどを主宰されたりしていました。



1874年ハワイ王国第6代ルナリオ王が亡くなった後、次の王は選挙により選出されることになりました。そのときエマ王妃も王位選出の候補者の一人となり、後の第7代カラカウア王と激戦しました。ですが、惜しくも破れてしまいました
その後は公職に就かずに、晩年は静かな涼しいヌウアヌ谷のサマーパレスにて余生を過ごされました。
1885年ルーク家で病気のため49歳で亡くなりました。今でもそのサマーパレスは「エマ王妃のサマーパレス」と呼ばれ、ドーターズ・オブ・ハワイの管理下のもと、王妃の個人所有のコレクションや王の所有物、ハワイ王国全盛期の文化遺産などが展示されています。そして庭には、王妃の名前が付けられた「エマのスパイダーリリー(紫色)」も咲いています。

現在のエマ王妃のヌウアヌ谷にあるサマーパレス

エマ王妃の名が付いたエマ王妃のスパイダーリリー
photo from "Memories of Majesty at Hanaiakamalama"by Queen Emma Summer Palace

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  • 藤原 小百合 アン
    Anne Sayuri Fujiwara
    担当講師

    【インタビュー動画あり】
    アーミッシュキルトの盛んなアメリカ・オハイオ州の高校に留学中にアメリカン・パッチワークを習得。メリーランド大学学士号取得。その後ハワイに移住し、マウイ島のハナ・マウイ・ホテルで出会ったハワイアンキルトのベッドカバーに一目惚れをし、ハワイアンキルトを始める。2001年9月11日、ニューヨークで起きた同時多発テロ事件の犠牲者とその家族への追悼キルト、『千羽鶴 フレンドシップキルト』を全国のキルターとともに完成させ、2009年9月、9.11メモリアルに寄贈。2011年7月、ハワイで毎年開催される「キルトハワイ」において、オリジナルデザインの「マノアの森」キルトがグランプリ受賞。ハワイ、日本でのレッスンなど、伝統的なハワイアンキルトを広げるため、日々奔走中。15年以上、パシフィックリゾートの「キルトパラダイス」(http://www.holoholo.world/kawaraban/category/quilt/)を連載中。 日本でハワイアンキルト本を数冊出版。2006年よりホノルルフェスティバルにおける伝統的ハワイアンキルト展を毎年開催。2013年よりイオラニ宮殿の日本語ドーセントのボランティアを始め、現在ハワイ在住31年目。

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